ジョウケイアイディール

□三段目《室咲き編》
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脱兎



 暗闇が覆う空間を一人、駆ける者がいた。

 額から汗が流れる。荒い息が空間に響く。唾をのみ、息を整えて、胸に交差させた腕に力を込めた。

 走りながら、視線を後ろへ向ける。何も見えないが、耳を澄ませば複数の足音が聞こえた。追行者(ついこうしゃ)≠セ。暗闇に潜み、確実に対象を追ってきている。


「は……っ。大丈夫、もうすぐ……もうすぐですよ……」


 誰かに言い聞かせる様に、はたまた自分に言い聞かせるかのように何度も、何度も『大丈夫』と言葉を繰り返した。

 ドンドン――と太鼓の様な音が、煩わしくも体の中心から奏でられる。

 焦燥を振り切るように足の速度を上げた。
 あと少し行けば曲がり角がある。

 靴音が壁に当たり反響する。限られた距離にもうすぐだと、そう思った時、曲がり角から誰かが躍り出てきた。


「!? ――ッ!」


 背筋に冷たいものが走り、咄嗟に右へ避ける。

 パァン――という乾いた音と共に、当たることのなかった軌道が空気を貫いて行く。

 そのまま転がり、近くにあった扉まで移動すると、素早く扉を開けて中に身を滑り込ませた。
 扉を閉ざし、鍵をかけ、乱れた呼吸と疲労を覚えた体に耐えきれず、ふらふらと壁に凭れかかる。

 足音は先ほどよりも近づいて来ていた。

 失敗だ。

 逃亡も出来ぬまま、脱出は失敗に終わってしまった。


「……すみません。僕は、一緒に行けそうにありません。でも……」


 腕を解き、視線を送る。

 今まで大切そうに抱えていたものに、伝えなければならなかった。

 小さい。小さい生き物だった。手の平ほどの大きさしかない子兎。漆黒の毛並にも関わらず闇と一体化しないのは、その毛が少し赤みを帯びているからだろう。
 色彩が反転した瞳、黒に囲まれた赤い目が不安そうに自分を見上げていた。


「逃げて下さい。例え僕がいなくても、一人でも困らない程度には知識を与えた筈です。僕のことは気にしないで、生きて下さい」


 チャポン――と、部屋に水音が響き渡った。

 乾いた床に水が広がる。靴の底から溢れ出る様に湧き出た水の量はそう多くない。手を着いても手の甲までは濡れないほど浅いのだが、これで十分だった。

 部屋が薄暗い。

 水と共に浮かび上がった白い睡蓮が、淡く光り部屋を照らす。朧ろげな光でも、たゆとう蓮の葉はみずみずしかった。

 何かを察したのだろうか、子兎が嫌がるように服にしがみ付いてくる。愛らしいその姿に、場違いにも和んでしまう。


「――。ほら、時間がない。僕の部屋からじゃないからどこに繋がっているのかはわからないけど……」


 子兎を両手でそっと引き剥がし、腕を前へと伸ばした。


「さようなら、お元気で――」


 そう言って、手を離す。

 水音が、ぽちゃん――と、水面と共に揺らめいた。





* * * * * *





 さらさらと吹く風を全身に浴び、微かに温いそれに瞼をゆっくりと開く。

 灰色の空に混じる白濁、身に巻いているこれと同じもの。指先をなぞれば、堅く冷たい瓦が包帯を通して触れてきた。

 黒装束が風にはためく、赤い目は気だるそうに細められているが、見つめている先は虚空ではない。竹でできた柵の向こう。竹林にその目線は向けられていた。

 周囲を覆う竹藪の一点に目を止め、ふらりと立ち上がる。空を仰ぎ、こてりと傾くと、首を傾けた状態のまま、もう一度同じ場所を見る。
 そして、ゆらりと一歩前に足を踏み出すと、次の瞬間には音も立てずに跳び上がった。

 生い茂る竹と竹の隙間に体を、まるで猫の様に身をくねらせ着地する。

 何かを探す様に視線を巡らせ、一歩、また一歩と足を進めた。
 不安定な足取りは、先ほどの軽やかな足揃えと違い、とても頼りないものであった。

 細濁りの瞳が無感情に見つめる先には黒い小さな塊がある。
 捕らえようと伸ばした手は、それが逃げる様に動いたことにより宙を掻いた。


「こい」


 淡々と、冷淡な声音で呼び掛ける。

 こちらの様子を窺っているのだろうか、小さなその黒い塊は僅かに身を動かしたものの、近づいては来ない。


「こい、こい」


 なおも、呼びかける。

 それは怯えたように、一歩後ろへと下がった。


「――おいで」


 三度目の呼びかけ、それは迷っているようだ。

 寂しげに身を寄せたが、包むものは何もない。

 暫くするとそれは、小さな両手で顔を洗い。後ろ足で地を蹴った。

 ぽーん――と空中で一回転をすると、そのままぴょこぴょこと伸ばした手に擦り寄って来る。

 手の平に乗ったそれを胸元まで持って、指先で数回撫でる。触り心地の良い毛並、甘える様に頭を擦りつけてくるそれは、次に甘噛みをした。

 まるでそれが合図であるかのように、手を肩まで運び、それも迷うこと無く肩へと移動する。

 僅かな重みを感じながら、踵を返し歩きだす。

 その姿は頼り気なかったが、足取りはしっかりとしたものだった。


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