他ノ噺
□雲逝き
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雲逝き
彼女には夢があった。
それは、くも≠ノなることだと言う。
「ねぇ、――。私はね、くも≠ノなりたいの、真っ白なくも≠ニても素敵。なりたいわぁ……」
彼女はおそらく「雲」と言っていたのだろうけど、変に気取って舌を丸めるものだから「くも」というよりかは「くぅもー」に聞こえた。
そんな雲に憧れる彼女の話しを聞くのが僕の日課だった。
朝起きて、家の手伝いをする。そして手伝いが終わり、仕事に行くまでの時間――その間が僕と彼女との時間だった。
僕が来ると彼女は嬉しそうに笑った。ベッドに拘束されていても元気なもので、僕が来ると発狂しなくて助かると医者が言っていた。
どうやら僕がいない間は、彼女は発狂し暴れまわっている様だが、残念ながら僕はその様子を見ていないのでよくわからない。想像しようにも僕は、僕の目の前でニコニコと笑う彼女しか知らないのでいまいちピンとこないのだ。
「わたしは『病気』の割には元気なんですって、元気過ぎて困ると「白い人」が言っていたわ。でも変なの……その人、顔も真っ白で何もないのよ」
「つまり、のっぺらぼう?」
「そう! くも≠ンたいに白くて素敵だったわ!」
彼女は物事の何もかもを雲に結び付けていた。
本当にそう見えているのか。あるいは、そうでもしないと生きていけないのか……。
「あははは!」と大声を上げて笑う彼女は、何が楽しいのかよく笑う。
僕は、その笑顔が好きだった。
「あぁ……、もう時間になっちゃった」
「いっちゃうの? いってしまうの? よくないわ、それ」
「ごめんね、午後にまた来るから」
「嫌よ、今すぐ来て!」
「もう一度来るよ、今日来て明日も来るから……ね?」
僕は「ごめん」と言いながら、彼女の頭を二三度撫でる。
彼女はむくれていた頬をしぼますと、少し悲しそうに呟いた。
「そうよね……雲は、留まらず、流れて行ってしまうものよね……」
俯きながら彼女は「いってらっしゃい」と小さく僕を見送った。
彼女と出会ったのは、まだ蕾が膨らんでもいない雪解けだった。
脚を怪我した彼女が一時的に車いすに乗っていて、酷く弱弱しい後ろ姿が妙に気になってしまい声をかけたのが始まり。
聞けば、病院を抜け出してきたという。
僕が「駄目じゃないか。じっとしていなきゃ」と叱ると、彼女はみるみるうちに涙目になった。
しかたなく、彼女が涙声のまま「散歩がしたい。少しの間でいいの、少しだけ」と言うので、僕は車いすを押して歩きだす。
「……お医者さまは、治療すれば治ると言っていたの、本当よ? ちゃんと治るって、だけど……今日お母さんに言われたわ、「今のままじゃ歩けなくなるよ」って……嘘よね? お医者さまは「治る」と言っていたもの、治るわ! ……治る、よね?
このまま、歩けなくなっちゃったりしない?」
おそらく、彼女は自分が怪我人という自覚がなく。脚のことを忘れて遊んでいたのだろう。少なくとも、僕が何も言わなくともペラペラ喋る彼女の話から察するにそうなのだ。
それを見かねた母親が脅しで言った一言を真に受けて、恐怖から病院を飛び出してしまった――脚の怪我のことなど忘れて……これでは当分、彼女の脚は治りそうにない。
「じっとしていれば治るのに……キミって馬鹿だね」
「馬鹿とは何よ! 失礼しちゃうわ!」
「だってそうだろう?」
「…………だって、じっとしていたら退屈じゃない」
なるほど、確かに。そう言われると彼女の言うことも一理ある。
だが、それで怪我の治りが遅くなってしまっては何時まで経っても全力で遊ぶことはできない。
「あーあ、いっそ雲になりたいなぁ……」
ふと、彼女はまばらに広がる白い粒たちを眺めながら言った。
それに「どうして?」と僕は聞き返す。
将来の夢になりたい人物を上げる子供は多々いるが、浮遊物を目標にする子供はそういないだろう。
そう思ったが故の興味。今まで欠伸半分に反応していた僕の普通の反応が嬉しかったのか、彼女は羨まし気に語る。
「だって、雲は脚がないのに進めるのよ。羽がないのに飛べるだけで凄いのに、脚がないのに移動するなんて素敵!」
それを言うなら「鳥」も同じではないのだろうかと思ったけれど、夢見る乙女の幻想を瞬殺する度胸は僕にはなかった。
それに、彼女は「羽」がないのにと言ったので、きっと羽はある鳥は彼女にとって「違う」ものなのだろう。
だから僕は代わりに、雲を否定する言葉を吐く。
「でもさ、雲は止まれないよ。一か所に留まることも出来ずに流れ続けることしかできない。自分でどこかに行こうと思ってもできない、全ては気流にそって動いているんだ」
「でも雲は恵みを与えるもの」
僕の言葉に彼女は負けじと言い返した。
「恵み?」
「雨!」
「あぁ、雨。でも雨で悪いことも起きているね、必ずしも雨=救いにはならないよ」
「あら、雨が救いだなんて誰が決めたの? 雨が降り続けばそれだけ水が増えるし――最後には必ず晴れるのよ。
言ったでしょう? 雨は「恵み」、なら救いは「太陽」よ」
ふふん――と、彼女はどうだ。とでも言うように鼻を鳴らす。
僕は一瞬考えて――黙ってしまって、次に口を開いたときにはもう大分時間が経過していたので、いまここで何か言ったら――それは全ていい訳のように、敗者の戯言のようになってしまう。
そう思った僕は、開いた口を大人しく噤んだ。
その代わり、車いすは病院に着いた。
見えてきた病棟に彼女も僕がどこに向かっているかに気付き、ぐるりと後ろを振り返って僕を睨みつけてくる。
「騙したわね!」
「騙してないよ。キミは「散歩」って言ったじゃないか。だから「散歩」をしていたんだ。
……散歩が終わったら、次は「帰る」のが当然だよね……?」
「そういうの屁理屈っていうのよ!」
「キミがさっき言っていたことだって大分屁理屈だ」
笑いを堪え切れずに拭きだす僕に、彼女は子犬の様に喚く。
けれども病院はどんどん近くなって、キミの散歩はまもなく終了する。
仕事が終わって病室に訪れた僕に、彼女はパッと笑顔を綻ばせた。
「くも≠ェ帰って来たわ!」
嬉しそうに両手を伸ばす彼女に応え、僕は彼女の抱擁を許容する。
彼女の温もりに抱かれながら「雲じゃないよ」と否定する僕に、彼女は「いいえ」と間も開けずに反論した。
「くも≠ヘ留まらないわ、けれども巡り巡ってまた元の場所に帰ってくるの! その証拠にほら、ちゃんとくも≠ヘ戻って来た!」
僕を腕の中に収めながら幼子の様にはしゃぐ彼女はとても純粋で、そして無垢だ。
愚かな人、雲は途中で消滅することを知らないようだね。
「……でもやっぱり駄目ね。くも≠ヘちゃんと戻って来たけど、またすぐに行ってしまうわ。次はいつ来るのかしら、明日? それとも明後日?」
「明日の午前に来るよ」
「どんなに手を伸ばしても行ってしまう。なら、やっぱり……いっそのことわたしがくも≠ノなって追いつかなきゃね!
ああ! くも≠ノなりたいわぁ……!」
また始まった。
彼女の雲になりたい話し。彼女の雲の話しはいつも唐突だ。なにがきっかけで「雲になりたい」という台詞に繋がるのか予想がつかない。
だけど、今日彼女が話す理由はいつもと違っていた。違っていたのだけれど……僕は彼女が何を言っているのかよく聞き取れず、その意味を解することは出来なかった。
「早く、くも≠ノならなくちゃ」
どこか焦った彼女の様子は、とても危うい雰囲気を漂わせていた。
雲なんかにならなくていいよ。
その言葉を伝えられたらどんなにいいだろう。
けれども僕は何も言わない。その言葉を彼女に向けるということは、同時に彼女の夢≠――生きる理由を失くすということだから。
ある日崖から落ちた彼女は、もう十年以上も病院のベッドの上で過ごしている。
あの日から彼女と親しくなったので、僕にその知らせが来るのもおかしいことではなく、けれど彼女の両親がわざわざ僕≠ノ知らせてくれるのは不思議だった。
だがその疑問はすぐに解消された。なんてことない、彼女が僕に会いたいと言ったからである。それさえなければ僕はここ――病院に呼ばれもしなかっただろう。
彼女が崖から落ちた。
どういった経緯でそうなったのかは人伝で聞いたので定かではない。というのも『曖昧』な理由が『複数』あってどれが真実なのかわからないのだ。
ある人曰く「自分で崖から飛び降りた」と言うし、
ある人曰く「山に木イチゴを採りに行って誤って落ちてしまった」と言う。
その他にも色々あったが、文に当てはまる単語が違うだけで大体は同じ内容なので正直聞いていて飽きてきてしまった。
だから、彼女から直接聞こうと歩きだした僕の耳――入って来た医者と彼女の両親の会話は、僕の動きを止めるのには十分だった。
彼女は崖から落ちたとき、打ち所が悪かったらしく下半身が動かなくなってしまったそうだ。
自分なりにまとめた言葉を何度も、何度も頭の中で巡らせて、いつのまにか辿りついた病室の前で僕は――いつも通りの僕≠ナ入った。
「相変わらずキミは馬鹿だね」
「…………」
「どうして崖に行ったの?」
僕の顔を見つけるなり起き上がろうとした彼女は、その動作が怪我に響いたのか顔を歪めて少し体が動いただけに留まった。
僕の質問に彼女は目を逸らした。明らかに何かを隠している。
周りは「どうして崖から落ちたのか」に考察しているようだけど、僕が知りたいのはそこじゃない。
僕が知りたいのは「どうして彼女が崖に行ったのか」だった。
同じようで意味が違うこの二つは、しかしどちらも彼女に聞かなければ明かされない真実だ。
「……雲に……」
か細い、今にも消えてしまいそうな声で彼女は――
「雲に、なりたかった――!」
まるで懇願するように言った。
翌朝――届いた知らせに、僕は我が耳を疑った。
「……なんだって?」
彼女が、崖から――落ちた……?
嘘だ。
真っ先にそう言いたかったが、しかし体は意識に反して突風のように駆け出した。
いや、意識には反していないのかもしれない。
なぜなら「そんな訳がない」と否定している僕は、頭の片隅では「彼女ならありえなくはない」と思っているからだ。
ありえないなんてことはない。
彼女なら、やりかねない。
初めて崖から落ちて両足が動かなくなった彼女は、翌日には正気ではなくなった。
医者が言うには強いストレスによるものだそうだけど――無垢を通り越して幼稚になった彼女は自分の感情に正直だ。
正直だからこそ……!
「こちらとしても不明なことが多くなんとも言えない状況で……一体、どうやってあの拘束を解いたのか、全くわからないんですよ」
僕が病院についたことには全ての片がついていて、医者が興奮した様子でなにやら喚いていたけれど……僕の耳には全くと言っていいほど入ってはいなかった。
彼女はついさっき、息を引き取ったらしい。
つまりは死んだのだ。
続く