他ノ噺

□心体実想
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心体実想



 玄関を開けたと同時に跳びかかって来たその物体を渾身の脚力によって蹴り飛ばす。


「げっふぅ!」


 鈍い音と共に吐き出された喘ぎ声、抱擁を物理によって拒否された《イナジマ・B・グリム》は心と身体に大きなダメージを負った。

 衝撃により立ち上がることのできないグリムに声を掛ける訳でもなく、無視を決め込んだ女はさっさと家の奥へと入って行ってしまう。


「――久々の再会だって言うのに手荒い歓迎だね?!」


 女が自分の上を跨ぐのを感じ、遠ざかる足音にグリムは慌てて体を起き上がらせた。


「あ?」


 その抗議に女――《稲島(いなじま)小色(ちいろ)》は不機嫌そうに振り向く。


「たった数日の出張ぐらいで大袈裟な。ねちっこい男は嫌いよ」


 そう言うなり、早く肩っ苦しい正装を脱いでしまいたい小色は着替える為に背を向ける。

 グリムはそれを不満そうに見送るも、すぐに頬笑むと立ち上がり彼女の後を追った。


「先にご飯? それともお風呂?」

「お風呂」

「了解!」


 すっかり冷めてしまったお湯を温める為に、グリムは体の向きを変えて行き先を変更する。

 自室へと足を入れた小色は、何かを思い出したかのように「あ」と声を上げると、「おいグリム」と彼を呼んだ。


「んー?」


 自身を呼ぶ呼び声に体を向かせるグリム。

 小色は右手で扉のノブを握った態勢で、顔だけをこちらに向けていた。


「ただいま」

「! おかえりー」


 その言葉を聞き終えて、小色は自室へと入る。

 後ろで聞こえた扉の開閉音に、グリムはほっと息を吐いた。





 鬱陶しい汗を流してお風呂から出て来た小色を待っていたのは、この世で最も鬱陶しい男による土下座だった。

 土下座――またの名を『おねだり』の意を姿勢で示すグリムは顔を上げると、切羽詰まった表情で小色を見る。


「なんだ?」


 意地が悪くもあえてその意味を聞く小色。
 鏡で確かめる訳でもなく、自分は悪い笑みを浮かべているに違いない。

 にやにやと笑う小色に、グリムは訝しげる訳でも非難の声を上げる訳でもなく、小色の問いに答えた。


「血を下さい!」


 馬鹿正直に声える馬鹿な吸血鬼に小色が素直に血を上げるとでもこの男は思っているのだろうか。


 答えは、否だ。


「なぜ私がお前なんぞに血をあげなくちゃいけない? それに血ならこの前飲んだじゃないか。ご丁寧に私の首筋からな」

「『この前』って言ったって、もう二週間も前じゃないか!」


 とんとん――と首筋を指先で叩きながら言う小色にグリムも声を上げる。

 しかしここでこの男の甘いところは、小色がその前に言った「なぜ私がお前なんぞに血をあげなくちゃいけない?」の部分に反論しないところだ。
 それについて規制を掛けたのは他でもない。彼の目の前で悪魔の如き笑みを浮かべているこの小色自身、身を固める際「私のことが好きなら私から与える血以外は飲むな。飲んだらお前の正体をネットに晒す。そしてその後離婚だ」と脅し書類を作成し判を押させた。

 『惚れた弱み』とはよく言ったもので、これまでグリムが小色に対して不利な(または喧嘩になるような)言動をしたところを結婚後一度も経験したことがない。


 だからこいつは馬鹿なのだ。


「週一で飲ませてくれなくちゃただでさえ辛いのに、小色さんったら出張があるってわかっているにも関わらず飲ませてくれなかったから、その分も今に回ってきてすっごく辛いっ」

「ああ、言ったなそんなこと。たしか『今お前に飲ませて具合が悪くなり、出張先に響いたらどうしてくれる』……だったかな?」

「小色さんー」


 グリムは惨めにも懇願し続ける。


「小色さんが出かけてすぐに人の姿が保てなくなるし……吸血鬼の姿じゃ買い物にも行けないし、そもそも外に出られないし……
 小色さん。家に備えがなかったら流石の僕でも死んでいたかもしれないよ?」

「良かったな。家にインスタント食品が大量にあって」

「地震と災害、それから万が一に備えて……ね。
 こんな緊急時僕は予想していなかった!」

「結果的に報われたな」

「そうだね! って、違う!!」


 そこでようやく我に返ったグリムは再び小色に懇願する。

 流石に涙目になっているグリムに「頃合いかな」と(けして「やり過ぎた」とは反省しない)小色は、ほてりが取れた体を伸ばしついでに首を回した。


「はいはい。どうぞ」

「本当?! いいの? いいの小色さん!」

「うるせぇ、やらねぇぞ」

「ごめんなさい」


 まるで「待て」ができた犬のように嬉々として抱きついてくるグリムに、小色はグリムの威厳について考えてみる。


(……ないな)


 『尊敬』はあっても、よそのご家庭にあるような夫の威厳が全く感じられないグリムに、「まぁ、そんなのだから私≠ニ上手くいくのだろう」と小色は勝手に納得した。


 噛まれた患部は、まるで医者に麻酔を打たれたかのように痛みがない。
 その代わり触覚は反応するので、なんともいえない不快感がある。


「……ごちそうさまー」


 小色の首筋から顔を上げたグリムの顔を見やると、そこに鋭さはなくなっており、丸い瞳と耳、唯の八重歯となった歯が笑みと共にちらつくだけである。


「……何度も聞くが、お前のその体質≠ヘ一体どうなっているんだ」

「気力。気力ですー。人が意識して理性を働かせるように、僕は意識して人の細胞≠『働かせる』んだ。
 だから眠っている時とかやっかいだよね。「意識がない」から自然と解けちゃうし、驚いた拍子に解けちゃうのもなー。
 他には……君だって、いつも気を張っていたら疲れてしまうだろう? 僕の「これ」もそれと同じ、違うのは、君は「睡眠」で気力を回復するけれども、僕は「吸血」で気力を回復するのさ」

「狐か」

「吸血鬼だよー。
 ……でもまぁこれは、代々人の血も受け継いできた僕の家系の特権みたいなものだよね。いやー周りの吸血鬼の純血主義の凄さったらないよ」

「ふーん」

「ま、お陰で血以外の食べ物でも生きて行けるけどね」


 そう言って「さ。仕事で疲れたでしょ? ご飯ごはん」と有無を言わさず小色の手を取り歩き出す。そうして連れて来られた食卓には、小色のと――彼女のより明らかに少ない食事が用意されていた。

 けれどこれに小色は何も言わない。

 先ほどのグリムの言葉「血以外の食べ物でも生きて行けるけどね」は、あくまでも最低限度の話で、極限の状況になればグリムはたった一滴の血でも長い時を生き伸びることが出来る。

 それに対して食材は、彼にとって『生きて行くためのエネルギーを摂取する』というより『空腹を誤魔化すために摂る物』であり、小色に例えるなら「水を飲む」「こんにゃくを食べる」ことに等しい。いくら飲んでも、いくら食べても体の栄養にはなりはしないのだ。
 小色の理解度はこの程度である。もしかしたら彼は「そんなことないよ。少しは摂れるよ」と付け加えるかもしれないが、「少し」というようにその量は微々たるものであろう。

 そのため小色にとってはこの量の差も見慣れたもので、黙って食卓に着き「いただきます」の言葉で食べ始める。
 グリムも同じ様に箸を動かすが、比べるまでもない量の違いに、しかし食べ終わる頃合いは揃うのだから不思議なものだ。

 不思議というよりは――ただ単にグリムの食べるペースが遅いだけだ。小色もどちらかというと小食の分類に入るが、グリムは(先ほどの説明も加え)それを下回り食が細い。


 食事が終わった後はソファに移動しテレビを見ると決まっているのだが、この日はいつもと違い。グリムは席を立とうとしなかった。


「……? どうした、グリム」


 何かを考えているようなグリムの様子に、小色は不思議そうに尋ねる。


「小色さん、突然で申し訳ないのだけれど……」


 グリムは両手の指を組んでは解いてを繰り返し申し訳なさそうに言う。


「今度、僕の友人と会ってくれないだろうか?」


 小色は、取り敢えずグリムを殴っておいた。




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