他ノ噺
□心求理想
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心求理想
寂れた裏路地。その一角にひっそりとたたずむ店があった。
店に看板はない。けれども人知れず存在するその店は、一部の者たちにとって知る人ぞ知る憩いの場所である。
料理も酒の種類も豊富な店のオーナーは寡黙な人で、客からの信用も厚い。
内装は六人座れるカウンターテーブルとテーブルが三つ、一メートル先も見えないほどの薄暗い店内を除けば何処にでもある普通の飲食店だ。
さて、そんなお店の一角、入り口から入って一番奥のテーブル席に腰かけ、一人、赤ワインを飲んでいる男がいる。
男の名前は《マキ・C・テイル》。ただの『吸血鬼』である。
マキがワイングラスを傾けているその近くには、既に開けられたボトルが三本。
しかしマキの顔色は変わらず、まるで水を飲むかの如く流し込んでいた。
「やぁ、マキ。待たせてごめんね」
後ろから掛けられた声。それに対しマキは苛立たしげにワイングラスを置く。
待ち人のやっとの登場に、マキは目線だけを腕時計に向けた。
「――五十分の遅刻か。呼び出しておいて随分な対応だな」
「そんなこと言うなよ。これでも急いで来たんだ。それに、久しぶりの再会にその台詞はないんじゃない?」
「なんのことだ。俺の知り合いに半端者なんぞ存在しない」
「でもマキは今日来てくれた。それで十分だよ」
マキの向かい側に座りながら、その男は笑った。なんとも吸血鬼らしくない腑抜けた笑みだった。
「で、話とはなんだ。いや……それよりも、お前――」
とても吸血鬼とは思えない雰囲気、人間の様に気の抜けた態度。それは変わらない。
しかし、マキがふと男の顔を見た瞬間。マキは動作を停止せざるを得なかった。
「お前、その『目』はどうした」
「……あ、もうバレた?」
まるで昼の猫の様に瞳孔が尖った目を持ち、その男は笑った。
口角が上がった口元から見える牙が鋭利に光る。
「――牙も……」
それは、マキが知っている男の姿ではなかった。
マキが知っている男は、血が薄くなり人間と同様の姿を持つ、人間と変わらない。言わば人間に育てられた半端者だ。
吸血鬼はただ生まれれば吸血鬼と言う訳ではない。己を自覚して、本能を知り、能力に目覚めて――初めて『吸血鬼』と言えるのである。
だからこいつは『人間』だった。己が何者であるかという自覚はあった。
だが本能は人間の集団心理によって薄れ、能力に至ってはその存在すら認知していなかった。
受け継がれた血も、開花する環境が揃わなければ腐るのだ。
それがどうだろう。今マキの目の前にいる男の姿は吸血鬼そのものである。
たるんだ顔をしているのが残念ではあるが。
「お前、どうした。どうやって知った。先人から教えられなければ、俺だってこの姿を手に入れなかったのに……」
マキの問いに、男は笑って、
「血を飲んだんだ。人の血を、それもちゃあんと首筋から、ね」
いつか、マキが男の元を去る前に教えたこと、それが出来たのだと、まるで親の言いつけを守った子供が褒められるのを期待するかのような顔で言う。
それに理解ができなかったのはマキの方であった。
「それだけで……それだけで『吸血鬼』に成れる訳がない」
「成れたんだよ。現に僕は、人の世では生き辛くなった」
男は悪戯っぽく笑うだけで、肝心の答えを言おうとしない。
マキは困惑を隠しきれず、誤魔化すようにワインを飲んだ。
「ねぇ……マキ。君はどうして僕が『こうなった』のか知りたいみたいだけど、僕が思うに、『これ』に答えなんてないんじゃないかな。
なろうと思ったから、成れた。……凄くシンプルなことさ。それじゃダメかい?」
マキの心情を察した男はゆっくりと、落ちつかせるように言葉を発した。
その態度にマキは侮辱と羞恥心に顔を染め、しかし怒鳴り散らすという行為は理性で押し留める。
昔から癪に障る男だったが、今はそれの比ではないぐらい目の前の人物が腹立たしくて仕方がない。
「マキ」
そして、まるでそれを見透かしているかのように、穏やかに笑うその態度も気にくわなかった。
「君が僕のことを良く思っていないのは知っているよ。けれど僕は君に感謝しているんだ。ありがとう、君のお陰だ。
僕は吸血鬼になったし、何かと不便なことが増えたけど、けれども幸せなんだ。漸く、幸せを手に入れたんだ」
ひとつひとつ、言葉を噛み締めるように口にする。そんな様子の男に、マキは自然と気持ちが落ち着いていくのを感じた。
「幸せ……なのか」
「うん。君はまた嫌がるだろうけど、実は人間と結婚したんだ」
「そう、か。……おめでとう」
「…………あり?」
男が穏やかな心境のまま祝いの言葉を発すれば、次に驚いたのは男の方である。
目を見開き、小首を傾げ、「あれ? 俺の知っているマキと違う」と記憶の中に残る友人と目の前の人物を照らし合わせても、全く一致しない。
男の知るマキは、いつも眉間に皺を寄せていて、男を虫けらのように見下し、人間がとても嫌いで、街にくり出すだけで吐き気を催すのだ。
「マキ? マキ、なんか。僕の知っているマキと違う」
「俺も同じ様な心情だよ」
「……僕? 確かに、昔と比べて見かけは違うって自覚しているけど……」
「容姿の話だけじゃない。……そうだな。お互い、変わったな。そうだよな。思えば、お前ともう何年会っていなかったか」
「ざっと十年ぐらいかな?」
「それぐらいか……いや、『そんなに』か。お前からしてみれば十年は長いのか?」
「え? ああ、うん。長いなぁ」
「そうか」
「……マキ? 本当にどうしたんだい?」
男は不思議そうにマキに問う。けれどもマキにも、自分がどうしてここまで落ちついているのかわからなかった。
思えば、常に感じていた不快感を抱かなくなったのは何時からだろう。
それまで人間は大嫌いな存在で、食料程度にしか考えていなかった。
そんな人間みたいに生活し、かつその立場に甘んじている男が許せなくて、『吸血鬼の血を引くなら』と会うたび会うたび説教まがいな事をしていた。
いつの日か見た。怒りのままに、別れも告げず路地裏から立ち去るときに映った顔が妙に頭に残り、それが事あるごとに脳裏をちらつき、それでも怒りと気まずさから会いに行くことはなかった。
その時からだ。世界の見方が変わったのは――何かが間違っていたのだと、自分のこれまでを改めたのは、あの出来事からであった。
「どうもしないさ。ただ……そうだな。俺も変わったんだよ。
少なくとも、人間臭い生き方をする半端者の幸せを、素直に祝えるほどには」
「…………」
「だからと言って、人間が好きになった訳ではないからな。お前だから許せた。それだけだ。
俺は相変わらず人間を食料としか見ていないし、その為ならあの薄暗い路地裏から平気で人を攫えて、あげく記憶を弄れる――吸血鬼なのだからな」
気恥ずかしさから急にまくし立てる様になってしまったマキだったが、その態度に男は気を悪くした様子はなく。むしろ少し唖然とした後に、これ以上ない幸福だというような顔をして、言った。
「それでいいよ。マキはそれでいいよ。それで十分だ。
ありがとう、マキ。僕はあの日、君に救われたんだ。友人であり、理解者である君に」
「……次会う時は、町の中か」
「! あはは、そうだね。偶然ばったり出逢うかも」
男はおもむろに腕時計を見て、「もう帰らなきゃ」と言って立ち上がった。
その一連の動作から、彼には帰る家があるのだとマキは改めて思った。
「……ブラッド」
マキを背にして歩いて行く男に向かって、久しく口にしていなかった名前を発する。
それに男は不思議そうに振り返った。
特に言うことを考えていなかったマキは、内心慌てて、
「……名前は、変わったか……? ほら、結婚して、名前が変わった、とか」
口にした内容の下らなさに、マキは心の中で自分を叱咤する。
そんなマキの思考など知る由もない男は、暫く黙った後、笑顔で、
「変わらないよ。僕は《イナジマ・B・グリム》だ」
――と、誇らしげに言った。
終わり