他ノ噺
□偶遇似者
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偶遇似者(ぐうぐうじしゃ)
稲島小色は疲れていた。
出張が終わって、また間を開けずの出張、しかも今回は長期ときた。それもようやく終わりを見せたが、しかしまだだ。仕事の目途は確かに立ったが、帰れるのは明後日になる。これまでの忙しさから、自然と手が遠のいていた酒も、明日から始まる後片づけを考えると流石にもういいんじゃないかな。と自分の中で何かが吹っ切れ、気づけば足は酒場に向かっていた。
暗い空の下、たよりなく辺りを照らす居酒屋の明かりにとても惹かれた。もともと飲む店を調べていたときに紹介されていた店というのもあったが、それを抜きにしてもいい店だと思った。
おしゃれな和風の横引き扉を開け、ウキウキとした気持ちで堺をくぐる。今日お酒を飲んで、また明日から仕事を頑張るのだ。
今までの疲れを、全てそぎ落とすつもりで小色は堂々と席に着いた。まずは熱燗! そう店主に伝えようと手を上げ右を見たとき――。
「……あ」
「あ」
旦那の親友(?)と目が合った。
狭い店内。席はカウンター席しかなく、小色はその中間やや手前に腰を下ろしていた。この位置は、奥から二番目の席に座っていた彼が自然と目に入る、かつ全貌が余裕で確認できる場所だった。
旦那の親友――マキ・C・テイル もまた、小色の声に反応して彼女を振り向き、そして同様の声を上げた。いつか喫茶店で見せた落ち着いた大人な雰囲気はどこへいったのか。口をポカン、と開き間抜けな顔を見せている。これがギャップ萌えか。と小色はその顔をまじまじと見た。
「……こんな所で会うなんて偶然だな。あと、なんでニヤニヤとこっちを見るんだ。俺の顔に何かついてるのか?」
「いいえ。そんなんじゃないですよ。ただ……なんというか……以外に可愛げがある方なんですね、貴方って。と思って」
「はあ?」
怪訝な顔をする間木を無視して小色は、許可も取らずに彼の隣へと移動する。もちろんその前に、店主へ自分が飲む酒を注文することを忘れない。
「おいっ」
「いいじゃないですか。どうせお互い一人酒の予定で、寂しかったでしょう?」
「だからって気安く来る奴があるか。仮にも夫を持つ女が」
「そんな杞憂、必要ないですよ。私は貴方に手を出されないし、貴方は私に手を出さない。ね?」
「そうだな。俺はあんたに欠片も興味がないし、あんたも俺に興味がない。至って健全。やましいことなんて一つもない。だろ?」
「皮肉――!」
「男女が夜の居酒屋で、しかも二人っきりで飲み交わしてて、それで潔白とか。昔からの旧友じゃない限りあり得ないだろ。むしろドラマや恋愛映画だとそこから不倫が始まるんだ。……ブラッドが俺に詰め寄ったら、そのときは助けろよ」
「これ同窓会じゃないんで。不倫始まらないんで、そこは安心していいですよ。けど助けるかどうかはなー……どうかなー……助けられる自信ないかなー……ぷぷッ」
「おい……ふ、ざ、け、ん、な、よ! 頼むぞ本当に」
「あ、どうもー」
「おいぃっ」
間木の願いを無視して小色は、店主から一合徳利とおちょこを受け取る。そして隣の間木自身もこの会話を本気にしてはいないのだろう。それ以上彼女に詰め寄ることはなく、けれど眉間にしわを寄せて酒器の口を指でなぞっていた。小色はそれさえも措いといて、まずは酒だ。と一口のどへ流し込む。アルコールの刺激が食道をかけ抜け、温かさが強張った体をほぐした。
思わずホッと息を吐いた彼女に、なぞっていた縁から指を放した間木が声をかける。
「仕事か? 随分お疲れな様子だな……」
「え? ……ああ、ええ。ここのところ忙しかったですし、そうですね」
「ブラッドは連れて来てないのか? せっかく遠方に来たんだ。旅行も兼ねて連れて来るのもアリだろう?」
酒の入ったグラスを片手に訊ねた間木、しかしそれに対して小色は「んー……」と、なんとも歯切れの悪い声を漏らした。不思議に思いながらも間木は急かすことはせず、彼女からの言葉を大人しく待つ。
するとやがて、小色の方からぽつりぽつりと話し始めた。熱を求めてか、徳利を両手で持つ様に、いつもグリムの隣にいるときのような自信の有りようは感じられない。
「これは私の我儘だとわかってはいるんですが……仕事とプライベートは分けたいんですよ。グリム相手だと……貴方が目にしたような態度ですが、それこそ表と裏、みたいなもので、仕事しているときと全然性格が違うんです、私。だっておかしいでしょ。あんな横暴な態度で仕事が上手くいっていたら!」
「まあ、そうだな」
「線引き……線引き、ですね。あいつには辛い思いをさせているとはわかっていますが、こればかりは譲れないんです。……もしもグリムに何かあったとき、財産はなるべく多い方がいい。私が築き上げた地位と財力が、いずれあいつの助けになれば良いと思っています」
そう言って酒を口に含む小色につられ、間木もグラスに口をつける。そうして数分、二人の間には沈黙ができた。
間木は手にしていたグラスを静かにカウンターに置くと、ポツリと言葉を零す。
「良くも悪くも先を見据えているんだな」
「……ええ」
良くも悪くも。その言葉に少し躊躇した小色は、わずかに間木から視線を外し、控えめに頷いた。
「そうか、そうだな。数か月ぐらいなら寝ていれば血の摂取も必要ないし……人の一生、動けるうちに好きなことをすべきだな」
「そうですよ。……――は?」
「ん?」
続けて間木から発せられた同調する言葉に、小色は頷き――頷いて、つい流してしまいそうになったが、その言葉の中にあきらかに聞き逃せないものがあったため、思わず彼女は声を上げ、慌てて間木の方を向いたのだった。
驚愕の表情を浮かべる小色に釣られ、間木も同じような反応をする。しかしそれは驚いているというよりは、呆けているに近かった。事実小色の表情に、間木は理解が追いついていなかった。
なぜそのような顔をするのか。また、そうさせた原因はなんなのか。今までの会話を振り返るに、原因は自分の言葉であることは間違いないのだが、しかし彼女を驚愕させた言葉(原因)そのものがわからない。覚えがない。
「それ、その……と、いうと?」
「――と、いうと? 何が『いうと』なんだ?」
さっぽり小色の言いたいことがわからない間木に、小色は「ああもうっ」と、頭に手を置き、髪をグシャリと握る。
間木の方も、どうにか彼女の気持ちを察しようとしたが、やはり自分はこれといって変なことを言った覚えがない。この時点で間木は、大人しく小色の言葉を待つ他なかった。
「さっき言った……『寝ていれば』は、あれはどういう意味ですか?」
「どういう意味と言われても、なあ……そのままの意味だが……」
「――だからぁっ!」
その《意味》が知りたいのだと、そう叫びたい気持ちが言動に現れ、苛立たしげな声が小色の口から漏れた。
先ほどよりも深くカウンターに垂れ込み、背を丸めた彼女を見て間木は、ようやく彼女の言いたいことを悟る。けれど悟りの後に彼の頭を占めたのは呆れである。
小色、または彼女の旦那の、吸血鬼に対しての非常識さ。その他人を見下す気持ちが、間木を更にけだるくさせる。カウンターに肘をついた彼は一度ため息を吐き、それからゆっくりと話し始めた。
「……これだけ長い間家を空けているんだ。吸血鬼はまず枯渇状態に陥る。その状況を回避するには方法は一つしかない。それは“活動しない”こと。消費されるエネルギーを最小限に抑え、長い月日の中でも命脈を保つ。今でもよく使われる存命手段だ」
「……聞いてもいいですか? その方法を、何故とるのかを」
「人間なんか頻繁に襲ってみろ。すぐに俺たちの正体はバレて、居場所を突き止められたら最後、全滅する。人間が一日に三食なのと同じように、吸血鬼が“普通”に生活していたら最低でも二日日に一回、人間を襲わなくてはいけなくなるんだ。それが十、そして百と個体数が増えればどうなる?」
「百の吸血鬼に対して、百人の人間が“消費”されることになりますね」
「そうだ」
昔はそこまで数がなかったと言われている吸血鬼。だからと言って、先祖たちが毎日活動していたかどうかは定かではない。しかしこの国、この時代において自分たち《 C(クリムゾン)》の数は優に百を超えている。それを維持するために身内の中で折り合いをつけ、独特の社会システムを築くことが、クリムゾンを存続させる最良の手段なのだと間木は思っている。
間木の話を聞けば聞くほど、小色の胸の中にあった小さなしこりは確かな違和感になる。口にこそしないが話し終えても黙ってこちらを見ているあたり、彼も小色が何か疑問を持っているのをわかっているのだろう。だからこその沈黙だった。
「……そんな頻繁に血を、吸わないと、吸血鬼は活動できませんか?」
「当たり前だろう。個人差はあるが、連日活動するのに三日吸血を我慢しただけで飢えに襲われる。更に三日経てば血のことしか考えられなくなり、一週間も正気が保てれば良い方だ。大抵は六日目で理性を失った獣に成り下がる」
「もし……三日間、いいえそれ以上血を吸わなくても、連日活動ができる吸血鬼がいたら?」
「それはあり得ない。あり得ないが…………まさか――」
言いながら、間木の目の色が変わる。小色から与えられた疑問が彼を動揺させたのだ。
これまで正しいと、揺るぎないと思っていた答えが、まるで蜃気楼のように不確かになる。別に「そんなことはない」、「あり得ない」と否定したっていいのだ。だがそれができないのは彼女の夫が《 B(ブラッド)》であり、自分たち《 C(クリムゾン)》とは別の歩み方で現代に辿り着いた種族であるからだった。
誰も、隣人の生態を一から十まで説明できる者はいまい。間木は今、初めて己が吸血鬼に対して無知だということを知る。――初めて、ではない。
「……俺も学ばないな。《 B(ブラッド)》の……あいつの異質さを間近に見ていながら、まだ『同質の吸血鬼』だと思っている」
「? ……同じ吸血鬼では?」
「元が同じでも、進化の過程が違う。砂漠とサバンナの生態は同じか? そんな訳ない。仮に似ているところがあったとしても、そこに行き着く道のりは違う筈、言いたいのはそういうことだよ」
間木の言葉に小色は合点がいった様子で頷いた。
おちょこを両手で持ち、難しい顔をする間木を見ながら小色は「それで?」と、彼に問いかける。
「何か、この私に伝える助言は?」
「ある訳ないだろう」
「ねぇのかよ」
「むしろこっちが情報を欲しいぐらいだ。お前の旦那マジ未知過ぎる」
「特異体質中の特異体質みたいですからね。特殊、ここに極まれり?」
「首を傾けてこっちを見るな、馬鹿っ」
言いながら間木は小色の頭を軽く小突く。軽口を言えるようになったあたり、お互いに余裕を取り戻してきたようだ。酒で唇を濡らしながら小色は薄く笑った。
カウンターの向こう側にグラスを差し出して、間木は「マスター、おかわり」と酒の追加を頼む。自分が来る前からここにいる彼。一体どれくらい飲んだのだろうかと心配して聞いてみれば、どうやら小色が入店した時点で既にワイン三本は開けていたらしい。
らしい? と、小色が訝しげに聞けば彼は、その前に何杯か別の酒を飲んでいたんだ。と、けろりとした顔で告白する。酒のちゃんぽんもいいところだ。一体彼の胃……強いては体内はどうなっているのだろう。自身の旦那も特殊だが、この男もなかなかに謎体質の持ち主であった。小色は酒に弱い訳ではないが、それにしたって間木のペースは速すぎだ。
呆れ半分、心配半分でこちらを見る彼女に、間木はちょっとイラだったように「人の心配をする前に」と言いながら体を小色に向けた。
「自分の心配をしろ。少しは危機感を持て“捕食対象”さん」
「……は?」
「どうしてここに俺がいるのか。何故それを考えない、俺は吸血鬼だぞ? いくら夜だからって、堂々と人間の店で座ってられると思うのか?」
言われて、ハッと店内を見渡し始めた彼女を見て間木はため息を吐いた。チラリ、とカウンターの向こう側に立つ店主を見れば、彼もまた苦笑を零している。「わっ」と小さい、けれど驚いた声を上げた小色。その視線は店主に向いていて、ようやくか。と間木はまた、さっきよりも長いため息を吐いた。
「そういうことですか……」
「お前、本当に、頼むぞ。俺がいるうちは旦那の代わりに守ってやるが、俺もあいつもいない状態で同じことをする気か? それも無意識で? ……しっかりしてくれ。俺だって《 C(クリムゾン)》の中全てに顔が利くわけじゃないんだ。自分の身ぐらい自分で守る意識ぐらい持ってくれ……」
「あっ……はい。なんか、すいません……」
「本当かよ……」
疲れたように肩を落とす間木に、それを見ていた店主からおつまみのサービスが差し出される。
反省してるかと思ったのも束の間、臆することなく「店主、私には?」と聞く小色は図々しい以外の何者でもない。そんな彼女に店主はシワのある顔を柔らかく深めると、日本酒に合うつまみをこさえにかかるのだった。
終