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□安眠妨害
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―ぷぅぅ〜ん、…ぷゎぁぁ〜ん…
耳元で蚊の飛ぶ音がする。
自分でも尊敬するほど、寝付きの良い名無しさんだが、ここのところ毎晩のように、寝入った頃を待ってましたと言わんばかりに蚊が耳元でわめく。
そのたびに、ぶんぶんと手を耳の横で振って追い払うのだが、またうとうとと意識を手放しかけたと思えば、耳元に舞い戻ってくる。
実に厄介な話だ。
しかし、季節はまだ入学して間もない春のはじめ。
蚊が鳴くにしては時期が早すぎる。
ぷぅん、と人を馬鹿にしたような蚊の音を耳元で楽しそうに忠実に再現してくれている犯人は、同室の先輩ク・ヨンハだった。
名無しさんはもちろん、それに気付いていたが、いちいち相手にしていては身が持たぬと判断し、毎晩頭まで布団をかぶって睡眠時間を確保していたのだった。
いたずら好きの先輩も、恐らく自分の仕業だと気付かれているとわかっていたが、ぶんぶんと耳元で手を振るしぐさが可愛くて、頑張って無視しようとする姿がいじらしく、夜な夜な楽しんでいた。
しかし、いたずらも毎度相手にされないままでは面白味がない。
入学したてほやほやの、初々しい後輩にちょっかいを出してやろうといういたずら心は加速する。
また、くだらぬいたずらを…と、いつものように布団をかぶって安眠を勝ち取ろうとしたその時、名無しさんの身に戦慄が走った。
「血を吸ってやろう…」
名無しさんの白い首筋には、彼の人指し指が突き立てられていた。
冷たい指の感触にぞくりと背筋が震える。
ククっ…と押し殺した笑い声とともに、その男が自分の顔のすぐそばまで迫ってきている気配がする。
これはまずい!!
本能的に危機を察した体は、頭で考えるよりも先にがばっと上体を起こさせる。
「毎晩毎晩いい加減にしてくれませんか!」
名無しさんの剣幕に、あら怖いと口元に手を当てるが、その目は悪びれる様子は全く無い。悪びれるどころか、にやにやとその先の展開を期待しているかのようだ。
呆れた名無しさんは、血相を変え、いたずらの犯人が一番聞きたくなかった台詞を口にした。
「もういいです先輩。明日も大事な講義を控えてるし…今夜は別の場所で寝ますから」
小さないたずらに、ここまで怒るとは予想していなかったヨンハ。
その目にさっきまでの余裕が消えた。
普段のように、困ったように少しむくれた顔を見せてくれると思っていたのに。少しやり過ぎたか。
それにしても、そこまで怒らなくてもいいじゃないか。
名無しさんにしてみれば、首筋に男の指を立てられ、血を吸うなんて言われては、身体の危機にすら匹敵する恐怖だ。
後輩の可愛さ余って仕掛けたいたずらも、彼女にとっては笑えないいたずらだった。
叱られた子供のようにおろおろと口ごもるヨンハに目もくれず、部屋を出て行こうとする名無しさん。
悪かった、そんなに怒らないでくれよと、慌ててなだめるも聞き入れてもらえることはなく、自分の情けない声と部屋の戸を荒々しく閉められた音とが同時に、静かな一人の部屋にむなしく響いた。
今頃しょんぼり肩を落としているかも…と、部屋を飛び出たものの些細ないたずらごときに自分もさすがに子供過ぎではないかと立ち止まる。
否、あの先輩のことだ。案外飄々と一人、部屋で広々と体を投げ出して寝ているかも…。
それに、今戻ったら戻ったでまた何か言われるのは判りきっている。
飛び出てきたものの、考えてみれば寝床のあては無い。
春になったとはいえ、昼間と違って朝夕はまだまだ冷える。廊下で寝て、風邪でも引けばせっかくの講義も受けられない。
こうなれば頼みの綱は、あそこしかない…。
唯一、同じく新入生でかつ自分と親しい者達の居る部屋の前まで来た。
優しい二人は部屋に入れてくれるかもしれない。
あの長髪の先輩は、ヨリム先輩とは幼い頃からの友だ。事情を話せば、察してくれるかもしれない。
しかし、ここは右を見ても左を見ても男しかいない成均館。
男の隣で眠ることにも慣れてはきたが、三人も男の居る部屋に自ら飛び込むなんて、リスクが高すぎやしないか。
それに、お世辞にも広いとは言えない部屋で既に三人も寝てるのに、いくら背丈は小さいとて、つまらぬ喧嘩で飛び込んで来られては、迷惑の他に何があるだろう。
今さら戻るにも戻れず、良い案も浮かばず、とうとう名無しさんはその場にへたりこんでしまった。
廊下の床の冷たさが足元からじわじわと身体に伝わっていく。
こんなことになるなら、ちょっとぐらいのいたずらなんて目をつぶっておくべきだった…。
「名無しさん…か?」
男の声に反応し、うなだれた頭をゆっくり上げる。
「こんな時間に…誰かに用事でもあるのか?」
小さく首を横に振る。
じゃあ一体何事なんだと、めんどくさそうに頭をかく長髪の先輩。
「名無しさん!何があったの?」
キム・ユンシクは襖の向こうから外の様子を聞き、心配そうに中二房から顔を出した。
消灯時間が過ぎてから、先輩が帰ってくるのは毎夜の事なので気にしていないが、名無しさんもそこに居るとわかり、同じく心配そうに後ろから覗き込むのはイ・ソンジュン。
とりあえず中に入るよう三人に促され、泣きそうな顔のままその好意に甘えることにした。