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□一夜漬け
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「あぁーやっぱり難しい!!」
消灯時刻を過ぎた部屋で、小さな机の上に開いた論語の本とにらめっこが続く。
今日の復習を兼ねた試験を明日に控えているというのに、講義でつい寝てしまった名無しさんは、一夜漬けをも辞さない覚悟だ。
親切な同級生キム・ユンシクが貸してくれた本には確かに解釈がびっしりと書かれているのだが、名無しさんには半分ほどしか理解できないのである。
こんな日に限って同室の先輩ク・ヨンハは部屋を抜け出して牡丹閣へ出掛けてしまった。
ユンシクとソンジュンの部屋に質問しに行こうかとも考えたが、もとはと言えば寝てしまった自分が悪い。おまけに本まで借してくれたのに、消灯時間も過ぎたことだ。これ以上迷惑をかける訳にはいかないだろう。
「それにしてもやっぱりテムルはすごいよなぁ。頭も良いし、優しいし、おまけに美男子だし…文句の付けようがないじゃない!!」
きゃーっ!と思わずバンバン机を叩く。男物の衣服を身に付けているとはいえ、やはり中身は女の子だ。
「全くこんな時間にやかましいなお前らはっ!眠れやしない!」
怒鳴り声とともに部屋の扉がドカッ!と長い足で蹴り上げられた。
濃紺の着流し姿でぶっ殺すぞ!といわんばかりのオーラをまとって名無しさんを見下ろす男。
「すっ、すみませんコロ先輩!」
暴れ馬の逆鱗に触れてしまったようだ。
「…ん?一人でこんな時間まで何してやがる…?」
ヨンハの姿が見当たらず、拍子抜けしたような顔だ。
「そ、それがですね…。明日の講義の試験勉強がはかどらなくって…」
突然の大声にびっくりして、俯きながら答える。
「お前は一人でぎゃあぎゃあ騒ぎながら、勉強するのか?」
口角を片方だけ上げてフッと笑いながら、机をはさんで名無しさんの前に座り込んだ。
肘を付きながら、長い指で本をぺらりとめくり、興味無さげに目線だけ本に落とす。
「しかもその講義、僕寝ちゃって余計にちんぷんかんぷんなんですよ…。」
「阿呆かお前は」
呆れた、といわんばかりの目が向けられる。
「ですよね…。せっかくテムルが本まで貸してくれたのに、僕の頭じゃ追い付かなくって。もう試験は諦めて寝ます。夜中にお騒がせしました」
しょんぼりと肩を落とす。
「仕方ない奴。どれ、教えてやるよ」
面倒くさそうな表情。だが、まんざらでもなさそうにも見える。
「ほんとに…良いんですか?」
ジェシンの優しさに、うるうると捨てられた子犬のように見つめる。
まったく…とぼやきながらも、ぶっきらぼうな言い方ではあるが、ゆっくり丁寧に解説するジェシン。
「ここはこうでな…これはつまり、…というわけだ。わかるか?」
小さな子供に読み聞かせでもするかのように、わかりやすい言葉を選んで例えまで挙げながら説明してくれる。
彼の低くてやわらかい声が、夜も更けた静かな部屋に染みわたるように響く。
熱心に聞くあまりジェシンに、どんどん顔が近付いていく名無しさん。
「先輩、喧嘩だけじゃなくて勉強も出来るんですね…!」
至近距離から悪びれることなく言い放つ。
「貴様、居眠りとは言わず永遠に眠らせてやろうか?」
ぎくり。
慌てて近付け過ぎていた顔をばっと離し、目を逸らす。
「もうそろそろ寝ろ。これでもし明日また講義で寝てたなんぞ聞いたらぶん殴るぞ」
どうやら本気で怒ってはいないようなので、ひと安心。
「本っっ当にありがとうございますコロ先輩。おかげで助かりました」
にっこり満面の笑みでお礼を言う。
「そんな顔でヘラヘラ笑うな、まったく…男だろうが」
長髪の頭を掻きながらジェシンは着流しの裾をバサバサ揺らして出て行った。
寝苦しさから何度も寝返りを繰り返していたジェシン。もうすぐ夜も明ける頃だろうか。
何となく気になってまた中二房からそっと廊下へ出た。
薄暗い空の下、やはりまだあの部屋からは灯りがもれている。
「寝ろって言ったろうが…」
自分でもよくわからない。なぜか名無しさんが入学してきて以来、気になって仕方ないようだ。
廊下から部屋の中の様子をそっとうかがう。
『すぴー…すぴー…』
部屋からは規則正しい寝息が聞こえる。
やれやれ手のかかる奴…と、音を立てぬようそーっと部屋に入る。
「ぁ…せんぱ…おかえりなさぁ…」
人の気配に気付いたのだろうか。寝ぼけてぶつぶつと呟き、ムクッと机に突っ伏していた体を起こす。が、すぐにゆらゆらと小さな頭はゆっくり舟を漕いでいる。
「おい、そんなとこで寝たら風邪ひく…っておい!?」
ぐらり、と一度後ろへ大きく揺れたかと思うとその反動でぽんっとジェシンの胸におさまってしまった。
むにゃむにゃ…と寝ぼけた名無しさんはそのままジェシンの胸にぴたりと両手を当て、気持ち良さそうにしている。
長い睫毛が伏せられた、可愛らしい寝顔。ほんの少し開いた、ぷっくりと紅い唇。
そしてはだけた自分の胸元に置かれた小さな白い手は柔らかい、絹のような感触…。
「…ック!…ヒック!」
思わず口元を袖で覆う。
名無しさんの体を引き離し、光のような速さで布団に寝かしつけ、慌てて廊下に飛び出したジェシン。
…、ック…。
男のおの字もあり得ないこの成均館で…不覚にも、後輩の男にドキドキしてしまった…。
「おいコロ、本当に奴は男かな?それにしては可愛らし過ぎる寝顔だろう?」
背後であの部屋のもう一人の主の声がする。
「放っておけないよなぁ。あんな可愛いいと」
勘の鋭い友人に悟られまいと、口元を抑える手にぎゅっと力が入る。
「もう夜な夜な出掛けるのは辞めて、これからはあいつの添い寝でもしてやるとするかなぁ」
手の平で閉じた扇子を打ち鳴らし、ジェシンの正面に身をひるがえす。
「なっ…いやむしろお前は毎晩牡丹閣へでも何処へでも行け!そして帰ってくるな!」
胸ぐらをつかみ、勢いよくまくしたてる。
「おや?天下の暴れ馬コロはそんなに後輩想いだったっけか?
別に構わないだろう、所詮男同士、添い寝くらいしたって間違いなんぞあり得ない…」
「…ック!」
にやりと笑うヨンハ。
「ところで、そのしゃっくりは止まりそうかい?」
背けた目線が泳ぐ。
「それにしても意外な律儀さに驚いた。お前が男に、肩まできちんと布団を掛けてやるなんて…どうしても放っておけないってことか」
「…ヒクッ!っ…朝から鬱陶しい!」
顎に突き付けられた扇子を片手で払いのけ、大股で中二房へ戻っていった。
その後半刻も経たないうちに、起床を告げる鐘が鳴らされた。
ヨンハ先輩、おはようございます♪と同室の先輩に語尾に音符をつけて顔を洗いに行った後輩は、どうやらすこぶる機嫌がいいらしい。
気だるい春の朝、
「おはよう名無しさん。試験の準備は間に合った?」
「おはようテムル、実は昨日ねー、夜中にコロ先輩が教えてくれたから、もうばっちりだよー!先生の話よりわかりやすかったんだ!すごいでしょ?」
「いいなぁ。僕も一度は教わってみたいよ」
「テムルは頭が良いから、それ以上賢くなっちゃダメ」
「僕は講義で寝たりかんかしないからね〜」
背丈の小さなあどけない少年二人が、小突き合ってじゃれている。
男ばかりのむさくるしい寄宿舎。東斎に身を寄せる誰もがその二人の会話を聞いて、何だか気恥ずかしいような、居心地の悪いような妙な気持ちになるのであった。
「面白い奴が二人も入ってくるとはね…」
その光景を微笑みながら見守るヨンハ。
コロ先輩ってば、本当にすごいんだからー!と名無しさんのはしゃぐ姿をヨンハの隣で腕組みしながら見つめるジェシン。
「やっぱり俺は名無しさんの方が可愛いと思うな、うん。
今晩枕元で素敵な本でも読み聞かせてやろうか」
「寝言は寝てから言え」
短くため息をつきながら、二度寝に向かう。
厄介なことになりそうだと思いながらも、コロ先輩、コロ先輩と嬉しそうに話す名無しさんの声を背中に受け、思わず顔がゆるんでしまうのであった。