お題

□噛みしめた味は、忘れない
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 下弦の月が出始めた刻。
 生と死の狭間に堕ちた男の身体を連れて、女は彼の前にやって来た。
 里山の岩に座る彼の足下に、女は男を寝かせる。
 薄い闇の中でも、男の顔に生気が無いことが見て取れた。呼吸も虫の息に等しい。
 顔に巻かれた墨染色のさらしから覗く赤い瞳が、女と地べたに寝かされた男を射ぬく。
 たっぷり時間を置いてから、彼が口を開いた。

「それで」

 用件は何だと言わんばかりに、岩の上で足を組む。ついでに、腕も組んでやった。
 彼が放つ重たい空気に怯まず、今度は女が口を開いた。

「すくってほしいのです」

 生と死の狭間から、彼の魂魄を掬い取って欲しい。

 月に似た色の瞳で彼を見上げながら、女は言い切った。
 彼の赤い瞳が、僅かに開かれた。
 里山の奥から吹いて来た風が、女の羽織る袿と腰に巻いた裳を揺らす。
 また長い時間が、二人の間に流れる。
 男の呼吸が、ゆっくりと、小さくなっていく。
 早く掬い取らなければ、彼は還って来れなくなってしまう。
 女の顔に焦りの色が表れ始めた時、彼が口を開いた。

「この男がなぜ堕ちたのか知っていて、お前は俺に頼むのか」

「無礼は、重々承知しております……!あなたにしか……イザナミ様の御孫様であるあなたにしか、頼めない事なのです!」




 この男は、里山一体を管理するとある村長の息子であった。
 大変浪費家で自分勝手で酒癖が悪く、日に一度は面倒を起こす、迷惑極まりない男であった。
 昨夜。その男はいつものように酒を呑み、悪酔いし。気分が昂っていたのか、里山の一角にあった社に向かい、あろうことかその社に向かって用を足した。
 その社に祀られていたのは、イザナミという国産み、神産みの女神だった。
 女の目の前にいる墨染の衣を身に纏った彼の祖母である。
 社の怒りを受けた男は、あっという間に魂魄を抜き取られ、生と死の狭間に閉じ込められた。
 里山に住む女は見かねて、男の身体を連れて孫に会いに来たのだ。




 身内がした事なだけに彼も事情を知っているのか、男がした事について深く追及はしない。
 が、祖母が悪いわけではないので弁解もしない。
 神は祟り、仏は罰を与える。
 その事を忘れていた男の自業自得である。

「すくって何になる?その男は、今まで数えきれない程の騒ぎを起こして来たのだろう。お前も、顔を合わせる度に男に目の事や父親の事を言われて、からかわれて来たのだろう」

「…………っ!」

 彼に言われて、女は言葉を窮する。
 引き結んだ唇に歯が食い込み、血を滲ませる。
 確かにそうだ。
 女の父親は、人ではない。天狗と呼ばれる妖の類いであった。
 女の目は父譲りで、父を知る男は女に会うたびに、父を女をなじってきた。
 酷い物言いを受け、涙を流した日もある。
 それでも、男をすくう為に女は彼に会いに来た。

「すくいたい理由は?まさか、婿にもらいたいわけではあるまい」

 さらしの奥で鼻で笑って見せる。
 彼の言葉に、女は頭を強く横に振った。

「いいえ、いいえ!」

「では、」

「私が落としたいのです。…………あの世に」

 女から出てきた言葉に、彼は目を見張る。

「復讐でもする気か?」

「…………男の天命はまだ残っています。御孫様、どうかこの男を掬って下され。刻が来たら……私がこの男を冥府に送ります。ですから……」

 女の目は真剣そのものだ。嘘偽りを吐いている様子はない。
 彼はしばらく女を見つめたあと、組んでいた足をほどいた。

「……代償が必要だ」

「代償……?」

「おばあ様の術を解くのは、俺でも骨が折れる。だからと言って、説得してどうにかなる相手でもない。代償の一つや二つ、ばあ様に供えれば、幾らか術式をほどいてくださるだろう」

 諦めにも似た声音で、彼は説明する。
 女は身を乗り出すように、足を一歩進めた。

「何を渡せばいいですか?」

「遠い昔に、イザナミが放った呪いを知っているな?」

「イザナギに向かって、千の命を奪うと言った、あれのことですか……?ーーっまさか!」

 彼の言わんとしている事に思い当たり、女は背筋を粟立てた。

「代償は、人の命ーー!」






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