白雪姫は朝靄のなか
□弐
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天国は常春でいつも心地のいい風が吹いている。
この世に来てからすぐは、ぼうっと生前のことを想いながら過ごしていたのだが、ほぼ初めて見る街の人々の賑わいに次第に心奪われていった。
そして、そんな人々と関わりを持つためにも、自分自身の自立のためにも、今まで無縁だった仕事をしてみたいと思った。
そんなとき、通い詰めていた甘味屋の気のいい老夫婦に誘われ、慣れないながらに甘味屋で仕事を始めた。
毎日が充実していたが、ふと、現世に残して来た家族や、あの不思議な神様を思い出しては、心が軋んでちくりと痛んだ。
「いらっしゃいませ」
そんな時には仕事だった。
今までは生前通り、書物を読んだり、編み物をしたりして暇を潰していたが、今じゃ、わたしも完璧な社会人として自立しつつあった。
しかし、やはり色んなものは唐突にやって来るものである。
180を優に越すであろう長身の、がっしりした体躯の男性が来店された。
黒い着物に、片手には金棒。
何より驚いたのは男性の額の真ん中に生える鋭い角だった。
ここの客層のほとんどは、死後天国に来た方々ばかりだ。
老夫婦は狐さまだから、それらしいお客様はお見受けするが、鬼を見るのは久しぶりだった。
だけど、そんなのはお客様には関係のないこと。
見たところ、獄卒の方のようだ。
何より、地獄から遥々この天国にわざわざ来て下さったことを嬉しく思う。
「何になさいますか?」
「そうですね…あんみつと、お抹茶をお願いします」
「かしこまりました」
媼に言づて、すぐに用意して貰い男性の元へ運ぶ。
「お待たせいたしました。
ご注文の品でございます」
「ありがとうございます。
…あの、白木宵さんですか?」
唐突にそう聞かれ、驚きながらも頷いた。
嬉しいことにわたしは早々に看板娘として噂になり、翁の話によればわたし目当てに通っているお客もいるらしい。
(翁さんはわたしを孫のように可愛がってくれるので、やきもきしているようだったけれど。)
だから、こういうことは珍しくはない。
その人はわたしをじっと見つめたあと、濃い緑の水面が揺れる茶碗を手に取りながら、口を開いた。
「…お噂通り、確かに神々しいですね」
「えっ…」
急な褒め言葉に顔を赤くする。
こういうことを言ってわたしを口説いてくださる方は度々いるのだけれど、
未だに慣れない。
ひょこりと顔を出した媼がふふと笑う。
「宵さんはそれだけじゃあないんですよ、若旦那。
こんな老人にも、鼻垂らして遊ぶ童にも優しくてのぉ。
『白雪』で有名なんですよ」
「ほう」
「お、媼さんっ」
「ほほ、恥ずかしがらずともいいじゃろうに」
『白雪』というあだ名は、わたしの名字の『白木』を聞き間違えた所から始まり、ゆっくりとじわじわ広まったらしい。
だけど、それがなんだか恥ずかしくて顔をお盆で隠してしまう。
媼さんや翁さんは、まるで娘や孫を自慢するようにわたしを褒めて下さる。
それは嬉しいのだけれど、如何せん、とても恥ずかしい。
気付くと媼は、まじまじとあんみつを口に運ぶ男性の顔を眺めた。
「…なんとなしに似ておる気がするのぉ。
髪と…あぁ、口元も少し」
「おや、嬉しいですね」
冗談なのかどうなのか。
男性は無表情で返事をする。
…そう言えば、“彼”に少し似ているような…。
媼はにこにこと微笑みながら、まるで兄妹のようじゃなぁと呟いた。
「ふふ、お客さまのような方が兄さまなんて光栄です。
現世に弟を残していまして…」
男性が、ふむ、と返事をした時、がらがらと扉が開く音がした。
裏の勝手口の音だ。
しばらくすると見慣れた白髪の老人が媼の後ろから出て来て、柔和な笑みを浮かべた。
わたしもそれに笑みを返す。
「翁さん、おかえりなさい」
「おお、ただいま宵さん…、って、あ…?
そ、そちらさまは…」
翁がぎょっとして男性を見やる。
どうかしたのだろうか、ときょとんとしていると、翁が急に委縮した気がした。
「もしや、閻魔大王第一補佐官の、鬼灯殿ですかな?」
「いかにもそうです」
「なっ、んじゃと……!?」
もしかして、偉い人なのだろうか。
この世の勝手はまだよくわからなくて、わたしは首を傾げるばかりだったが、翁は媼とわたわた慌てている。
そんな中涼しい顔のまま鬼灯様は抹茶を飲み終え、立ち上がった。
袂から財布を取り出して代金を渡しながら、ジッとわたしを見つめる。
「宵さん」
「は、はい」
「後日、この甘味屋に閻魔殿へのおやつの委託をします。
運搬はあなたがして下さいますと助かります」
「あ、はぁ……。
えっ?」
「それでは。
美味しかったですよ」
鬼灯様は呆気にとられたわたしをそのままに、颯爽と店を出て行った。
重大なことを言われた気がして、わたしは暫し動けないでいた。
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