1章「そして彼女は目を覚ます」

□16話
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朝、まだ日の昇る前の時間にクレスは目を覚ます。

ギルドで働くようになる前、まだ村の道場で修行をしていた頃から朝食前の修行は彼にとって大事な時間の一つであり、毎日欠かさずに行っているものだ。

顔を洗い、服を着替えて甲板へと向かう。

この時間帯に起きているのはたいていクレスだけであり、朝っぱらから風の強い甲板に出る者など他にはいない

……はずであった。

(アデル…?)

まだ空に星が見えるほど暗い甲板で、一人の少女が素振りをしている。

小さな体のどこにそんな力があるのか目を疑うほど、彼女の素振りは気迫溢れるものがあった。

修行に熱心なのはいつものことだが、今日の彼女はいつもにも増して力が入っているように感じる。

彼女は素振りの時、絶対に教えられた形を崩さない。見本に見せた形をそっくりそのまま再現してみせる、その機械のような精密さにはよく驚かされたものだ。

だが、今日の彼女は違った。

腕に力が入りすぎているせいで、フォームが少し乱れている。息遣いも荒い。まるで、

(何かと、戦っているような…)

何かを振り払おうとしているような、何かを倒そうとしているような、そんな殺気が甲板に充満している。

よくよく考えてみれば、この時間帯に彼女がここにいるという時点でおかしい。
なにせ、今はまだロックスですら起きていないほどの早朝である。しかも、今さっき始めたという様子ではない。
それに、彼女は6日前に大けがを負ったばかりである。依頼はもちろん、修行をすることの許可だってまだ下りていないはずだ。

だというのに、彼女はここで素振りをしている。


その理由を、なんとなくクレスは想像できた。


なので、何も言わずに剣を鞘から抜く。そして、アデルの隣で自分も素振りを始めた。

「…っ!」

自分以外の存在に気がついたとたん、アデルが異様なほどおびえて動きをとめる。

だが、クレスは「続けて」と声をかけるだけでアデルは見ずに素振りを続けた。

彼女は今、自分自身と戦っている。このような時は、何も言わない方がいい。何も言わずに、隣で共に戦ってあげた方がいい。

5分ほどたってからだろうか、しばらく固まっていたアデルも隣で素振りを再開した。

そのフォームには、先ほどまでの荒々しさや乱れは一切感じられない。元通りの、彼女らしい正確さに戻った彼女の素振りを間近で見ながら、クレスは安心して自分の修行に集中し始めた。






「はい、ちゃんと水分はとらないとだめだよ」

素振り100本セットを3回終えたところで手を止めたアデルに水筒を差し出す。

「ありがとう、クレス」

彼女は笑ってその水筒を受け取るが、まだ心ここにあらずという顔をしている。

「……怖い夢を、見たのかい?」

その言葉にびくり、と反応したアデルを見て、クレスの予想は確信へと変わった。

「……どうし、て?」

何故わかったのか、と問いたげなアデルの隣に座って、クレスも水筒の中のスポーツドリンクを飲み始めた。

「僕も、怖い夢を見た時はよく真夜中から素振りを始めるんだよ」

すっとアデルが顔を上げる。ようやく目を合わせてくれた彼女の目元は、暗闇でもわかってしまうほど赤くはれていた。

「………怖い、の。あの夢が、夢だと思えないことが、怖いの」

一言呟くたびに、彼女の体の震えが大きくなる。

「夢だってことはわかってるの。でも、それでもっ…」

そっとアデルの肩に手を置いて、小さな体を自分の方へひきよせる。

「わかるよ」

夢だとわかっているのに、ただの夢だと決めつけてしまうことが恐ろしい。

もし、夢が現実になってしまったら?

そう考えただけで、体に震えが走る。

(『父さんっ…みんなぁっ……う、わぁああああああ!!』)

故郷が燃える、あの夢。
自分の親しい者たちが目の前で死んでいく。あの恐怖は、何度夜を過ごしても褪せることなく瞼の裏に蘇る。

「どうしよう、クレス…わたしっ…」

小さな手で顔を覆い隠しながら、小刻みにふれるアデルの背中を優しくたたく。

こうしたらいいよ、と修行の時のように教えてあげることはできない。なにせ、クレス自身がまだ答えを見つけられていないのだから。

「……どんな夢を見たのか、聞いてもいいかい?」

そう尋ねると、アデルはしばらく黙っていたが、やがてぽつりぽつりと話しだす。

「初めは、ただの記憶だったの…サレと戦って、帰ってきて…エステル達が、医務室に来てくれたときの、記憶。だけど、途中でっ…暗くなって、それでっ…」

小刻みだった震えが急に大きくなって、アデルはクレスの服を強く掴んだ。

「え、えみるやまるたがっ…みんなが、あ、あ…ちがうの、わたしが…わたしがわるいの!だからっ…」

「アデル、アデル。落ち着いて」

ろれつが回らなくなってきた彼女を、軽く揺さぶって落ち着かせる。彼女がここまで取り乱すことなんて初めてで、心に戸惑いが生まれる。アニーを呼ぶべきだろうか。いや、その前にアンジュかもしれない。

「いっぱい、しんでるのっ…わたしのしたに、いっぱい、わたしがころしたのっ…でも、おぼえてない、わかんないっ!ねぇ、クレス、わたしは誰なの?わたし、なにをわすれたの?わたしっ…わたしが怖いっ!!」

後半は、声にならないような声だった。がたがたと震える彼女を必死に抱きしめながら、ようやくクレスは彼女が記憶喪失だということを思い出した。

(なぜ、忘れてたんだ…よく考えてみれば、わかることなのに!)

彼女がまったくそのことを気にしていなかったから、ということは言い訳にはならない。

これは、彼女がいままでどのような人生を歩んできたのか、そのことに興味を持たなかった自分達の落ち度だ。彼女が今楽しければそれでいいのではないかと思ってしまっていた。記憶なんて戻らなくても、ずっとここにいれば良いとまで。

だけど、彼女は生まれたばかりの赤ん坊ではない。

年はわからないが、少なくとも10年を超える月日を同じ世界で生きてきたはずだ。その間に彼女が何をしてきたのか、どのような人生を過ごしてきたのか、誰も知らない。

彼女自身でさえも。

「ねぇ、ひとをころしたら、どうしたらゆるしてもらえる?でも、ころしたひとの、たいせつなひとは?かなしいよ、しんじゃったら…かなしくて、かなしくて…いたいよ、」

大丈夫だよと、声をかけてあげることができない。

彼女が、過去に本当に人を殺していないと、誰が保障してくれる?

「いたいだけじゃなくて、きっとおこる…あのときね、サレに、にもつ、こわされたとき…わたし、サレころそうとしてた、ころしてやるって…」

焦点の合わなくなった目で、アデルは空を見上げてつぶやく。

「そう、か…これが、憎むっていうこと、なんだね」

体の芯が、ズキリと刺されたような痛みを感じた。

純粋で、全てを楽しみ、全てを喜び、全てを慈しんでいた彼女は、

彼女は恐怖や嫉妬、憎しみという感情を抱かず、世界を綺麗なものだと信じて疑わなかった彼女は、知ってしまったのだ。

誰もが、いつか知るだろうと思っていた。いつかは教えなければいけないと思っていた。だけど、同時に知らないままでいてほしいと願っていた。

人間の裏側を。負の感情を。人の本当の姿を。
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