御話

□I'm so happy
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準備は万端。あとは時計の針が一秒ずつ規則正しく進んでいくのをじれったく待っているだけだ。

約束の時間まであと一時間を切り始めたのに、まるで時が止まっているかのように錯覚を始めた僕の頭。
ああ早く飛び降りて楽になってしまいたいのに足にロープが絡み付いてまさに今、宙ぶらりんな状態。

夜もロクに眠れもせず、ずっと君に言う言葉だけを呪文のように唱え続けていた。
お蔭様で、万年寝不足顔の僕の目の下の隈は更に濃さを増していた。


昨夜は吉田氏にも電話をしてしまった。
いつもなら奴の声なんか聞きたくないんだが、不安で不安で仕方なくて臆病に震える心臓を叱って欲しかった。


「頑張れ」


いつもダラダラ御託を並べる吉田氏の、たった一言だけ置いて行ったその言葉が重たくて。
掌に納まる程の小さな箱がとてつもなく大きな存在に感じられた。
もうすぐ僕が発するであろう言葉は、僕と彼女の人生の中で最も重大な決断をしなければならない残虐なものになるのだ。
受け入れなければならない現実、それが悲劇であろうとしても。


腕の時計はまだ5分も進んでいない。
唇がカサカサになって喉が異常に渇いた。


僕は兎に角自信が無かった。いつだって君が僕の元を離れていってしまうのではないかと怯えていた。
今、必死に握り締めているものが全て僕の手から擦り抜けてしまう事を何度も妄想した。
こんなに苦しいのならいっその事自ら手放したほうが楽になれたのかもしれない。
でも手放せなかったのは、この苦しみが僕の幸せでもあったから。
格好悪くても惨めでも、喩え本当は君に愛されていなかったのだとしても、僕は幸せなんだ。

水面下から美しい蒼い羽を持つ鳥に恋焦がれた憐れな魚は、必死に水面に顔を出して君へ愛を謳う。
このまま生温い幸せに浸っていれば良かったのに、僕はそれ以上を望んでしまった。
水から這い出た魚の末路は乾涸(ひから)びるだけだと知っていたけれど。

それでも僕は誰よりも君の傍に居たいと思ってしまった。
痛いくらいに募る想いを止められはしない。
生まれ変わっても君の一番傍に居たいんだ。




今日、君が生まれた日に僕は永遠の愛を謳うよ。



君の部屋のチャイムを鳴らす約束の時間迄、あと30分を切った。
3月の中旬の空気はまだひんやりとしているのに、オープンカーの中の僕は外の寒さなんて感じる事も無かった。
肺に上手く酸素が入ってこない気がして深い呼吸をすれば白く曇る。
腕時計に目を遣る頻度が更に増えた。


急に鳴り出した携帯のバイブ音に驚いてディスプレイの表示画面を確認すると吉田幸司の4文字。


「おお良かった。平丸君大丈夫か?」
「はい・・・口から心臓が出そうですが」

若干いつもより優しくて緊張したトーンの吉田氏の声が心に沁みた。

「平丸君・・・男になって来い」
「吉田氏・・・」

不覚にもその励ましに涙が溢れそうになってしまう。漫画家と編集としての関係だけでなく、本当に色々と世話にはなってきた。
騙されたりそそのかされたりもしたけれど吉田氏のお陰で今の僕があるのかもしれない。

「平丸君!行って来い」
「いってきます」





幕は斬りおとされた。もう戻れない。





決意の入った重たい小箱と赤いアネモネの花束を抱えて彼女の部屋の前に立つ。
ガチャリとドアが開くと愛しい君の姿が見えた。


「ユリタン、お誕生日おめでとう」
「わぁ綺麗・・・ありがとう平丸さん」


差し出した赤いアネモネの花束に目を輝かせる彼女の方が本当に綺麗で、呼吸さえも忘れそう。
アネモネの花束に込めた意味をまだ彼女は知らない。

君に逢いたくて、君に触れたくて、君を誰にも渡したくなくて。
君を一生縛り付ける残酷な言葉を紡ぐ事を許してください。


「ユリタン・・・優梨子さん」
「・・・はい・・・」


笑う膝。震える声。掌に汗が滲む。
ずっと君のことばかり想っていた。
どうか殺さないでくれ。



「僕と、結婚してください」


指輪の箱を差し出して、僕は固く目を瞑る。
敢えてプロポーズの言葉をドア先で言ったのはNOと言われた時の為。
結局、駄目だった時の事ばかり考えていた相変わらずの僕。
ひやりと季節外れの汗が背中を伝ったのが解った。



「こちらこそよろしくお願いします」


差し出した指輪を受け取り、そう言ってぺこりと頭を下げた君。
頬を染めて笑う君の瞳には涙が溢れていた。


「ありがとう・・・一生掛けて君を幸せにします」


壊さないように抱きしめた。


「ありがとう。平丸さん」


涙声の君に僕は泣きながら接吻をした。
赤いアネモネの花言葉は「君を愛す」
その言葉に恥じぬよう、一生君だけを愛していく事を今日誓う。



本当の幸せを今日からふたりで創って行こう。



(了)





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