ヴァンジェ ―異端の花嫁と獣の王者―
□Chapter9. 『籠の鳥』
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夜明け前の、霧が立ち込める時刻。
ヒースは、バスカヴィル国の王都にある、寂れた裏通りを黙々と進む。
バスカヴィル国もノヴェロ国も、この時間帯は霧が発生することが多い。
そのためか、ひどく陰気な印象を受ける。
吐き出す息と霧が溶け合う中、目的地である小さな店の前へと立ち止まり、おもむろに扉を開く。
からんからんと軽快なベルの音が鳴り響いた直後、雑貨が雑然と並べられた棚や、何冊もの分厚い本が積み重ねられているカウンター、埃を被っている椅子などが、視界に飛び込んできた。
そして、覚束ない足音と共に、毛先があちこち跳ねた亜麻色の髪と、ブルーの瞳が印象的な細身の少年――ピアーズが、寝惚け眼を擦りながら姿を現した。
「……こんな朝早くから、何?」
ピアーズが欠伸を噛み殺しつつ気だるげな口調で問いかけ、ゆっくりと小首を傾げる。
とても店の主の対応とは思えないが、長年の付き合いであるヒースたちにとって、そんなことは今さらだ。
「――貴方に一つ、依頼があって来ました」
「まあ、そうだろうね……。で、依頼って何?」
ピアーズはカウンター席に腰かけ、もう一度欠伸を噛み殺す。
「ディアナの暗殺を企てている者を、炙り出してはくれませんか?」
ヒースが発したあまりにも物騒な内容に、ピアーズがぴたりと動きを止める。
そして、目を伏せてやや思案する素振りを見せ、唇を笑みの形に歪めた。
「……情報屋を開業してしばらく経つけど……そんな命知らずな奴を捜す羽目になるとは、思ってもみなかったよ」
「ええ、俺もこんなことを頼む日が来るとは、予想だにしていませんでした」
ピアーズは肩を竦め、カウンターに肘をついて手を組み、その上に顎を乗せる。
「……そういえば、ヒース。ディアナと一緒に、ノヴェロに越したんだよね? どうやって来たの?」
「ディアナが特別に、結界を解除して通してくれました。帰りは、ちょうどバスカヴィルの王都に向かう商人のために結界を解く時間に合わせるので、ご心配なさらず」
「……訊いてもいないことまで答えてくれて、どうもありがとう。まあ、そうでもしないと、ここまで来られないよね」
ならば最初から訊くなと言いたいところだが、いちいち突っかかるのも面倒臭い。
そんなことを考えていたら、彼が緩慢な動作で椅子から立ち上がった。
「これから、眠気覚ましにココア淹れるんだけど、飲む?」
「……よく、朝っぱらからそんな甘ったるいものが飲めますね。俺は遠慮させて頂きます」
「頭を働かせるには、糖分が必要なんだよ。……で、話を戻すけど」
店内の片隅にある小さなコンロでココアを作る傍ら、そっと視線だけをこちらへと向ける。
「……その馬鹿な奴は、既に動き出した後だけど……本人はあくまで高見の見物を決め込んでいるってところは、合ってる?」
「さすが、バスカヴィルきっての情報屋。全くもって、その通りです」
情報に齟齬はないと頷けば、ピアーズは僅かに眉根を寄せた。
「わざわざ、人間の殺し屋を雇ったところから、その黒幕も人間だろうね。まあ、人間だったら一人や二人、あいつを殺したいと思う奴がいても不思議じゃないけど……どう考えても、損害の方が明らかに大きいと思うんだよね。相手はノヴェロ王妃で、国宝並みの稀少価値がある後天的な獣人。……殺した後、痛い目見るのは確実だね」
「そんな危険を冒してでも、消したかったということでしょうね」
自分で言っておきながら、その内容にどす黒い感情が湧き上がってくる。
今すぐにでも、その犯人とやらを絞め殺したい衝動を抑圧し、深く息を吐き出す。
彼は出来上がったココアを小鍋からマグカップへと注ぎ、腑に落ちないといった風情で首を捻る。
「……でも、どうしてディアナがバスカヴィルにいる間に殺さなかったのかな。その方が、勝算があったはずなのに」
「ディアナがノヴェロ王の元に嫁いでから、殺意が湧いたのでは?」
その可能性は限りなく低いと理解しつつも、とりあえず口に出してみる。
「あいつがノヴェロに嫁いでから、恨みを買うようなことはしてないでしょ。舞踏会で何か一騒動あったみたいだけど、少なくともあの場にいたらしい貴族や王族に不穏な動きがあったとは、聞いていないし。……それに、どう見てもあれは計画的犯行だよ。突発的な犯行にしては、あまりにも人員が集まり過ぎ。金を大量にばら撒いたんなら話は別だけど、そこまで大事になっていたら、僕が知らないはずないから。だから……多分、大分前から計画されていたんだと思う。それも、かなり用心深くね。この僕が知らなかったんだから、相手は相当手強いよ」
ピアーズの推論は、間違いなく的を射ているだろう。
彼の考え通りであれば、全てに納得がいくからだ。
では、一体いつからその人物はディアナの命を狙っていたのか。
また、どうして『今』だったのか。
(おそらく……『今』、動き出したことが今回の謎を解く鍵になるはず)
だが、推測を立てるにしても、今の段階ではあまりにも判断材料が少ない。
だから、そのための情報を集めてきて欲しいとディアナに頼まれ、ここまで足を運んだのだが、ココアを口に含みながら渋面を作っているピアーズの様子や、先程までの会話を振り返ってみても、彼が知っていることもそれほど多くはなさそうだ。
ここを訪れる前に、夜通しパブで酒に舌鼓を打つふりをして耳をそばだてていたのだが、そこでは予想通り、大した情報は得られなかった。
だからこそ、余計にピアーズに期待してしまっていたのだが、世の中そんなに思い通りにはいかないものらしい。
彼はつかつかとカウンター席へと戻り、再び腰を下ろすと小さく溜息を吐いた。
「……分かったよ。腐れ縁だからね、その件についてできる限り調べてみる。それに、今まで僕の情報網に引っかからなかったなんて、癪に障るし」
「ありがとうございます」
そう感謝の言葉を口にした途端、いきなりずいっとピアーズが手を差し出してきた。
「お代」
端的に対価を要求され、ずっと手にしていたバスケットの蓋を開け、中に入っていたものを片手で取り出す。
「……はい。ディアナが昨日作った、ブルーベリータルトです」
ピアーズは基本的に、金銭は求めてこない。
その代わり、毎度お菓子を渡さなければならない。
しかも、甘いもの限定でなかなかに舌が肥えているため、下手なものを出そうものなら、契約を破棄されてしまう。
今のところ、ヒースたちとの交渉をなかったことにされた経験はないが、袖にされた他の客を何人も見たことがある。
情報通で有能なピアーズの、唯一の厄介なところだと言えるだろう。
ピアーズはタルトを受け取るなり、一目散にフォークを取りにいき、何の躊躇もなくタルトにフォークを突き立てた。
そして、そのまま食べやすい大きさに切り分け、口の中へと放り込む。
「ディアナが作ったお菓子はおいしいからね。……うん、今回も合格」
口をもごもごと動かしつつ、喜色満面の笑みを浮かべて頷く。
「……本当に、朝からよくそんなに甘いものが食べられますね」
その上、時折喉を潤している飲み物はココアだ。
個人的には、絶対にありえない組み合わせだ。
「……そういえば、暮らしぶりの方はいかがですか」
見ているだけで胃がもたれそうな光景から意識を逸らすべく、違う話題を持ち出す。
「ん? まあまあだよ」
「相変わらず店の中は汚く、服もよれよれですが」
「それは金がないからじゃなくて、掃除も洗濯も嫌いなだけだから」
「報酬はお菓子だけなのに、どうやって資金を工面しているんですか」
「あー、それは企業秘密で」
「どうせ、ギャンブルで金を巻き上げているんでしょう。嘆かわしい。それで一度も大損していないんですから、忌々しいですね」
「あんたは、僕の母親?」
「同じ獣人として、落ちぶれて欲しくはないだけです」
「ふーん……」
今、目の前にいるピアーズは、裏社会でひっそりと生きる獣人の一人だ。
十数年前、母親が何らかの方法でバスカヴィル国へと連れてこられ、その時にこの地で生まれたのだという。
どういう経緯で裏社会に身をやつしたのかは知らないが、詮索する気は毛頭ない。
そういった事情から、ピアーズは何かとヒースたちによくしてくれる。
「それでは、朝早くから失礼しました」
軽く一礼をしてから、店の外へと出る。
霧はまだ、辺りに立ち込めている。
まるで、現在の自分たちが置かれている状況を具現化したみたいで、溜息を吐きたくなる。
帰りの時間は、まだ先だ。
それまでの間に、可能な範囲で情報収集を行うかと、前に一歩踏み出した。