ヴァンジェ ―異端の花嫁と獣の王者―
□Chapter8. 『過去と未来』
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眠りの底に沈んでいた意識が、緩やかに浮上していく。
ゆっくりと瞼を持ち上げると、もう見慣れた天蓋が視界を埋め尽くす。
ふと、喉を焼き尽くすかのような焦燥感が、何故か一気に込み上げ、勢いよく上体を起こす。
ベッドのサイドテーブルに置いてある水差しから手早くグラスに水を注ぎ、ひったくるようにしてグラスを呷る。
でも、温(ぬる)くなった水は不快感を催しただけで、一向に気分はよくならなかった。
苛立ちを叩きつけるようにグラスをテーブルの上へ乱暴に置き、立ち上がるなり洗面所へと向かう。
扉を開け、洗面台の前に立つと即座に蛇口を捻る。
冷たい水で顔を洗えば、少しは腹の底に燻っている得体の知れない衝動が治まるかと思ったのだが、これも効果はなかった。
手近にあったタオルでぐいぐいと顔を拭いて視線を上げれば、そこには飢えた獣みたいな光を宿す、深紅の瞳と視線が絡み合う。
その男がヴァル自身だと理解するのに、どうしてだか時間がかかった。
何かが足りないと、突拍子もなく本能が囁く。
ひどく大切なものが欠けてしまったかのような感覚が、妙に心を急き立ててくる。
(……ディアナ?)
何の前触れもなく、脳裏に浮かび上がったディアナの顔に、疑問符が浮かぶ。
彼女は、未だ隣室で眠っているはずだ。
それなのに何故、ディアナの所在がこんなにも気にかかるのだろう。
洗面所から出て窓に目を向ければ、まだ明け方になるかならないくらいだった。
これでは、彼女の部屋に入るわけにはいかない。
そう理性は納得しているのに、本能は早くと叫ぶ。
二律背反の思いがせめぎ合う中、仕方がないと吐息を零す。
こんなにも落ち着かないのであれば、一度ディアナの顔を見にいこう。
彼女を起こさないように気をつけ、乱れた心を鎮めたら、すぐに退室すればいい。
そう己に言い聞かせ、ディアナの私室へと足を運ぶ。
一瞬、扉をノックしようかと思ったが、その音で彼女の眠りを妨げてしまったら意味がないと考え直し、慎重にドアハンドルを回す。
静かに扉を開けた先に広がっていた光景に、思わず息を呑む。
「……ディアナ……?」
そこに、ディアナの姿はなかった。
ベッドには就寝していた形跡さえなく、近づいてシーツに触れてみても、冷たい感触が指先に伝わってくるだけだった。
彼女は眠りもせずに、何をしているのか。
そもそも、この城内に留まっているのだろうか。
先程込み上げてきた焦りが飛躍的に増幅し、眩暈がしそうなほどの衝動が身を突き動かす。
急いで自室に戻り、普段の格好へとこれでもかというほどの速さで着替える。
そして、壁に立てかけてある剣へと手をかける。
ノヴェロ国王には帯刀する義務があるとされ、王位を手に入れた際に授けられたものだ。
その剣を鞘ごと引き抜き、腰に差す。
衝動に突き動かされるままにバルコニーへと飛び出し、手すりに手をつけるとそのまま地面へと飛び降りる。
いちいち階段を使って移動する手間すら惜しい。
地上へと降り立った途端、何かに引き寄せられるように迷いなく駆け出す。
自分は今、一体どこに向かっているのか。
行き先さえも分からないまま、狂ったように胸中で何度も愛する女の名を呼ぶ。
(……ディアナ、ディアナ、ディアナ……!!)
あたかもディアナの名しか知らないかのように、ただ繰り返し呼び続けた。