ヴァンジェ ―異端の花嫁と獣の王者―
□Chapter7. 『忍び寄る影』
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焼き上がったマフィンの味見をして、問題はないと判断してから素早く、且つ綺麗にラッピングを施した。
急いで大きな紙袋にラッピングをしたマフィンを次々と入れ、昼食を摂るために食堂へと向かい、緊張感を抱えたまま食事を済ませた。
昼食が終わって少し休憩してから、ヴァルと共に用意させた馬車へと乗り込んだ。
ゆっくりと馬車が動き出すのと同時、そっと彼に疑問を投げかける。
「ヴァルのご実家って、遠いの?」
「遠いってほどではないが、近いというわけでもないな」
「そう……」
ふと、そういえば何故ヴァルの家族は彼と共に城へ移り住まなかったのかと、疑問が脳裏を掠めていく。
城には、多くの部屋がある。
ヴァルの家族を受け入れる余裕くらいはあるのではないのか。
実家から離れられない理由でも、あったのだろうか。
どうして一緒に暮らさないのか気にはなったものの、口には出さないでおく。
(もしかしたら、単に大家族だからってだけかもしれないし……)
五人兄弟の末っ子であるヴァルが、今度十九歳になるのだ。
その上、結婚までしている。
上の兄弟も結婚している可能性は充分にあるし、もしかすると子供までいるかもしれない。
そう考えると、王である彼だけが城で生活しているのにも納得できる。
(……家族のことって、どのくらい訊いても大丈夫なのかな……)
ディアナには、家族というものが存在しない。
いや、かつてはいたのだろうが、獣人となってからはずっといなかった。
保護者であるウォーレスには家族と呼べるほどの親しみがなかったし、ヒースともそこまでは親密ではない。
ヒースは従者であると同時に、同居人という感じだった。
そのため、家族というものがどういうものなのか、想像しかできない。
しかも、その想像すら曖昧で、実際のものとは大きな差異があるかもしれない。
そんなことを考えていくうちに、急にヴァルの家族に会うことが怖くなってきた。
先刻まではきちんと挨拶ができるかどうかと、緊張で頭がいっぱいだったが、こうして彼の家族にいざ会いにいくとなったら、恐怖心までもが芽生えてきた。
未知のものに対する恐怖に、胃が委縮する。
(……大丈夫、別に取って食われるわけじゃないんだから……)
そう己に言い聞かせても、一度生まれてしまった不安は容易には拭えない。
膝の上に置いていた手をきゅっと握り締め、きつく目を閉じる。
(大丈夫、大丈夫……)
何がどう大丈夫なのかも分からないまま、ただひたすらにその言葉を胸中で繰り返す。
でも、後ろ向きな感情が心を占め、次第に呼吸が浅く速くなっていく。
手のひらにじっとりと嫌な汗が滲み、気持ちが悪い。
とにかく深呼吸をしなければと焦ったところで、不意に低く心地よい声が耳の奥まで滑り込んだ。
「――大丈夫か?」
突然かけられた声にぴくりと肩を跳ね上げ、おそるおそる瞼を持ち上げる。
開けた視界には、ディアナを案じるような表情を浮かべているヴァルの顔が映った。
咄嗟に返答できず、意味もなく口を開閉するディアナの頬に、ヴァルの大きく骨ばった手が触れる。
その温かさに、凝り固まっていた心が解れていく。
「……血の気が引いているな。そんなに緊張していたのか?」
ヴァルは一度立ち上がるとディアナの隣に腰を下ろし、もう片方の手も頬に押し当ててきた。
「あの……」
両手で頬を包まれ、自然と見つめ合う形になってしまい、何だか居たたまれなくなる。
ヴァルが純粋にディアナの心配をしているだけだと頭では理解していても、この状況はあまりよろしくない気がする。
だが、ヴァルはディアナの反応には構わず、じっと顔を覗き込まれた。
「大丈夫だ」
ディアナを安心させようとしているのか、ヴァルはゆっくりとそう囁く。
「昨日も言ったが、俺の家族はそんなに上品な奴らじゃないからな。いつも通りに振る舞っていれば、何も問題はない。……むしろ、ほぼ間違いなくお前が驚く羽目になる」
「……驚くって、何に?」
幾分か落ち着いた声を絞り出すと、ヴァルは露骨にしかめっ面をした。
「……うちの連中は、とにかくやかましい。特に、母と姉のやかましさは最早騒音って呼んでもいいくらいだ」
「ヴァルの家族って、そんなに賑やかなの?」
意外だ。
あまりにも意外過ぎる。
静寂を好むヴァルの性格から、てっきり家族も静かで穏やかな性分をしているのかと思っていた。
目を見開くディアナに、ヴァルは重々しく頷く。
「ああ、覚悟しておけ。父と一番上の兄は寡黙だが、あとはこっちが絶句するくらい喋るからな。多分、お前も圧倒されると思う」
「そ、そうなんだ……」
そういえば、この間の視察の際に父親似だと言っていたことを思い出す。
しかし、女性の好みは父親と正反対らしい。
(ヴァルのお母さんが賑やかってことは、ヴァルのお父さんはそういう女の人が好みだってことだもんね……)
ディアナは、賑やかさとは縁遠い。
無口かと言われれば、そこまででもないような気がするが、決して口数が多いわけではないだろう。
気を許した相手とはそれなりに話すが、そうではない相手だと会話が続かない。
でも、そんなに賑やかだというならば、気まずい沈黙が流れるという事態は、まず起きないだろう。
その点は、心配する必要がないに違いない。
ヴァルの話を聞いていたら、だんだんと身体から余計な力が抜けていった。
呼吸も落ち着き、きつく握り締めていた拳もいつの間にか解かれていた。
「……大分、血の気が戻ってきたな」
ヴァルの言葉に、彼の手の温もりへと意識が向く。
先程まではあんなにも温かいと感じていたのに、今はそれほどでもない。
むしろ、少しだけひんやりとしているかもしれない。
それだけ自分の頬が冷えていたのだと、思い知らされる。
「少し、手を貸してみろ」
頬を挟んでいた両手が外され、ヴァルの手が今度はディアナの指先を包み込む。
こちらも、頬に感じていた温もりと大差ない。
「指先も冷えていないってことは、もう大丈夫だな。緊張し過ぎると指先が冷えるって、何かで聞いたことがある」
「……うん、もう大丈夫。でもね……」
今にも離れていきそうな手を、きゅっと握り込む。
「馬車が止まるまでの間だけでいいから、このまま手を握っていてくれる?」
ディアナのことを好いてくれているというヴァルに、こんなことを頼むなんて、酷かもしれない。
それでも、少しの間だけでいいから、この温もりに縋りたかった。
己の卑怯な考えに嫌気が差して俯いたディアナの手を握る手に、ほんの僅かに力が込められる。
「……分かった。家に着くまで、こうしていよう」
「……ありがとう」
そんな自分の浅ましささえも溶かしていくような温もりに、泣きたい気持ちが込み上げてきた。