ヴァンジェ ―異端の花嫁と獣の王者―

□Chapter7. 『忍び寄る影』
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翌日。

昨晩のうちに料理長に話を通して必要な材料を準備をしてもらい、厨房を使えるように手配してもらった。

共に厨房へと足を運んだヒースに向かって、ぺこりと頭を下げる。

「それじゃあ、ヒース。よろしくお願いします」

「別にディアナとお菓子作りをするのは構いませんけど……あの男の家族のために作るのかと思うと、少々腹が立ちますね」

「……駄目?」

「いいえ。ディアナの望みであれば、力になりましょう。先程のは、独り言のようなものですので、お気になさらず」

彼は一旦調理台へ視線を向け、再びこちらに向き直る。

「それで? 俺は何をすればよろしいですか?」

「えっと、このメモの通りに材料の分量を二人で分担して量(はか)って、その後はヒースには生地作りに取りかかって欲しいの。私はその間に、生地に練り込むチョコを刻んだり、アーモンドを砕いたりしているから」

ディアナもかなり腕力がある方だが、やはり男のヒースの方が力がある。

力仕事になる生地作りを頼めば、ヒースは心得たとばかりに頷く。

「了解しました。ところで、味の種類はどのくらいですか?」

「プレーン味と、チョコチップ味と、アーモンド味を作るから、三種類」

「分かりました。じゃあ、三つのボウルに分けて作っておきますね」

「うん、ありがとう」

ディアナが礼を告げるや否や、それぞれの作業へと取りかかる。

まずは必要な分だけ材料を量り、小さなボウルやら皿の上に取り分ける。

そして、ディアナが指示した通り、ヒースは量り終わった材料を三つのボウルの中にそれぞれ放り込み、泡立て器やヘラで掻き混ぜていく。

ディアナも綺麗に洗った包丁で、チョコレートを細かく刻み込む。

しばらくの間、厨房にはそれぞれの作業の音だけが響いていた。

刻み終わったチョコレートをあらかじめ用意しておいたボウルの中に入れ、今度は布巾越しにアーモンドを麺棒で砕こうとした矢先、唐突にヒースが口を開いた。

「……そういえば、最近のディアナはとても活き活きとしておりますね」

「え?」

本当に何の前触れもなくそんな話題を振られたため、作業の手がぴたりと止まる。

いきなりどうしたのかと、ヒースの方に振り向けば、彼は作業の手を止めないまま、とつとつと話を続ける。

「ノヴェロ王に嫁ぐまで、ディアナの表情には翳りが多かったです。ですが、最近は楽しそうなので……。やはり、ノヴェロ王のおかげですか?」

「う、うん……多分……」

毎朝鏡を見ても相変わらずの無表情な顔が映るだけで、以前と比べて変化があったようには思えなかったが、長い時間共に過ごしてきたヒースがそう言うのならば、少しは何かが変わったのかもしれない。

とはいえ、その要因がヴァルにあるのかと質問され、戸惑いながらも首肯すれば、ヒースはほんの微かに笑みを浮かべた。

「……そうですか。それなら、よかったです」

「よかったって……何が?」

「ディアナが幸せそうだからです。……俺にはできませんでしたが、ノヴェロ王がディアナの気持ちを救ってくれたのであれば、ディアナのことを安心して任せられますから」

「……ヒースだって、私のこと、たくさん助けてくれた」

「そう言って頂けると嬉しいです」

何となく落ち着かない気分になり、気を紛らわせようと麺棒でアーモンドを打ち砕いていく。

もう一度作業の音だけが聞こえる中、ヒースはぽつりと言葉を零した。

「……俺、ディアナが幸せにさえなってくれれば、それでいいんです」

どう返事をしたらいいのか分からないまま、彼の言葉に耳を傾ける。

「自分が幸せにしたいだとか、大それたことは考えていません。だから、ディアナは自分がしたいようにしてください」

どうして突然、ヒースがこんなことを言い出したのか、よく理解できない。

僅かに眉間に皺を寄せたディアナに、ヒースがくすりと笑みを漏らす。

「最初のうち、自分の主であるディアナを取られた気がして、散々な態度を取ってしまいましたからね。ディアナは優しいですから、そんな俺の言動に困っていましたので、もう気にする必要はないと伝えておきたくて」

「……そっか」

「はい」

再度会話が途切れ、ディアナは砕き終わったアーモンドもチョコレート同様、小さなボウルに放り込んでいく。

「ヒース、こっちの作業は終わった」

「こちらも終わりましたので、こちらのボウルにチョコレートを、そちらのボウルにアーモンドを入れてください」

「分かった」

ヒースの指示通りに刻んだチョコレートと砕いたアーモンド、それぞれボウルの中に流し込み、彼がまた混ぜ合わせていく。

その一連の作業が終わったら生地をカップに流し込み、トレイに乗せて事前に温めておいたオーブンの中へと入れた。

マフィンが焼き上がるのを待つ間、使い終わった器具を洗っていると、ディアナが洗った器具を拭くために待機していたヒースが、ふと耳元で囁いた。

「……でも、たまには構ってくださいね?」

ちらりと横目で見遣れば、ヒースが拗ねたように唇を尖らせていた。

「ディアナに放っておかれたままでは、さすがに寂しいですから。適度に構ってくれないと、ディアナを困らせてしまうかもしれませんよ?」

「……さっきと言っていることが、全然違う」

先程、もう気にしなくていいと口にしたばかりではないか。

舌の根も乾かないうちに何を言い出すのかと呆れていると、彼が背後に回って抱きつき、頬に擦り寄ってきた。

その仕草が動物みたいで、少しだけ心が和む。

「たまには、と言いました。毎日毎時間毎秒構ってくださいとお願いしたわけではないんですから、このくらいはいいですよね?」

「……もし、そんなお願いされていたら、すぐに切り捨てていた」

密かに溜息を吐き、洗い終わった器具を水ですすいでいく。

「……分かった。時々は構うから、ちゃんといい子にしてて?」

「はい」

年下の女にこんなことを言われて嬉しそうに頬を緩める男の人など、この世でヒースだけだろう。

すすぎ終わった器具の水を切り、シンクの上に置くと、すぐさまヒースがディアナから離れ、布巾で水気を拭い始めた。

(ヒースって、何だか犬みたい……)

普段は主に忠実なのに、寂しくなると必死に擦り寄ってくる様など、犬そっくりだ。

(……でも、主なんだから責任を全うするためにも、ちゃんと最後まで面倒看なきゃ)

さながら犬の飼い主にでもなった心地で、こっそりとそんなことを意気込んだ。
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