ヴァンジェ ―異端の花嫁と獣の王者―
□Chapter6. 『救済の光』
3ページ/10ページ
外に出ると、今日は風が強いのか、顔面に風が吹きつけてきて目を細める。
そういえば、図書室で読書をしていた際、窓が風に叩かれてかたかたと音を立てていたと、今頃になって思い出す。
わざわざ、こんな日に散策をしなくてもいいような気がしてきたが、せっかくここまで出向いたのだからと、歩を進める。
少し後ろを歩いているフェイの方へと振り返り、ぽつりと言葉を零す。
「フェイ。帰りたくなったら、いつでも帰っていいから」
「いえいえー、最後まで姫にお付き合いしますよ」
「……物好き」
「えー、可愛いお姫様のお供をしたいって思うのは、自然の摂理じゃない?」
「そんな摂理、聞いたことがない」
溜息を吐いて前へと向き直り、薔薇の迷宮に足を踏み入れる。
ここはいつ訪れても、本当に美しく整えられている。
庭師が心を込めて手入れをしているのだと、薔薇園全体の様子から窺える。
薔薇園の中心に出ると、ディアナは近くにあったベンチに腰を下ろす。
すると、ディアナに合わせるようにして、フェイも隣に腰掛けてきた。
そのまま、ぼんやりと噴水を眺めていたら、唐突に紫色のチューリップが目に留まった。
まだ枯れていなかったのかと驚く反面、ヴァルから贈られた紫色のチューリップの造花が瞼の裏に鮮烈に蘇り、胸が締めつけられていく。
楽しかった祭り見物の幕引きがあんな終わり方になってしまい、無性に悔しくなる。
本当に何もかも新鮮で浮かれてしまったほどだったのに、あんな醜態を晒すなんて情けない。
ヴァルだって楽しんでくれていたみたいだったのに、最後の最後にディアナの面倒を看なくてはならなくなったのだから、その気持ちを台無しにしてしまったかもしれない。
(そういえば、私……ヴァルにちゃんと謝っていない)
自分のことでいっぱいいっぱいで、ヴァルに全然気を回せていなかった。
謝罪すらできないなんて、どれだけ平静を失っていたのかと、己の不甲斐なさに唇を噛む。
「ひーめ」
突然、隣から声をかけられて反射的に振り向けば、フェイがいつかのように赤い薔薇をディアナの髪に挿す。
少しだけひんやりとした感触と、上品な芳香にゆっくりと瞬きを繰り返していると、フェイがにっこりと微笑む。
「元気がないみたいだったからさ。前、こうしたら少し嬉しそうにしていたから、今回もこれで元気が出るかなーって」
「あ……ありがとう」
「いえいえ、どうしたしまして。それより姫、何か悩み事でもある? すっごい憂鬱そうな顔していたけど」
「……そんなに、ひどかった?」
「んー、ごめん。ちょっと語弊があったかも。……哀しそうって言った方が、正しいかな?」
「そう……」
どちらにせよ、フェイにまで心配をかけてしまったらしい。
あまり感情が顔に出る性質ではないと自負していたのだが、相手が獣人だからなのか、敏感に見抜かれてしまったみたいだ。
誤魔化したところで、敏い彼にあれこれと詮索されたら、余計に拗れそうだと悟り、深々と息を吐き出してから改めて口を開く。
「……他の人からしたら、全然大したことじゃなくて、悩みなんて大層なものじゃないかもしれないけど」
「悩みなんて、大抵そんなものだよ。本人にとっては一大事でも、他人からすれば『え? そんなことで悩んでいるの?』ってことが、ほとんどだよ」
フェイの実にあっけらかんとした物言いに、つい控えめに微笑む。
ほんの僅かだが、強張っていた心が緩んだ気がする。
そんな彼の気遣いに背を押され、ぽつぽつと言葉を紡いでいく。
「私、ね……ずっと、自分は幸せになっちゃいけないって思っていたの。そんな資格は、自分にはないって。でもね、最近ヴァルと一緒にいると心が弾むの。長い間蓋をしていたはずの感情が、どんどん溢れてくるの。……だけど、それって自分自身が駄目だって思い続けていた、幸せになるってことに繋がっている気がして……怖いの」
瞼を閉ざし、ゆっくりと己の言葉を噛み締める。
「ヴァルは、そんなものは無視しろって言ってくれたんだけど……そんなことをしたら、いつか大きな罰を受ける気がして……もっと怖くなっちゃったの」
フェイがどんな顔をしているのか知るのが恐ろしくて、未だ目は閉ざしたままだ。
目を開けてしまえば、否応なく現実を突きつけられてしまいそうで怖い。
「……こんなことを考える私って、やっぱり臆病? どこか、おかしい?」
そう問いかけた途端、不意に隣の気配が消えた。
もしかしたら、ディアナが打ち明けた内容に呆れて帰ってしまったのかもしれないと、緩やかに瞼を持ち上げた直後、いきなり目の前に影が落ちた。
戸惑って視線を上げれば、ベンチの背に手をつけて両脇からディアナを挟み込み、フェイが覆い被さってきた。
「……フェイ……?」
「ごめん、ちょーっと苛々してさ」
フェイの口元は笑っているが、瞳の奥には確かに怒りの炎が燻っている。
彼の怒りを目の当たりにするのは初めてで、思わず息を呑む。
だが、即座に冷静さを取り戻し、すっと目を眇める。
「……貴方の気分を悪くしたなら、謝る。だから、そこを退(ど)いて。貴方の視界から、今すぐ消えるから」
「あのさ、こっちの話を聞いてくれない?」
苛立ちを隠し切れていないフェイの手が、ディアナの髪に飾られた薔薇に伸ばされたかと思うと、くしゃりと音を立ててむしり取った。
フェイはディアナの眼前に薔薇を握り締めた手を翳し、ぱっと開く。
フェイの指の間から零れ落ちていく深紅の花びらは、さながら血飛沫のようだ。
ひらひらと舞い踊る花びらはディアナの膝へと落ち、まるで返り血を浴びた心地になる。
「姫、悲劇のヒロインを気取るの、やめてくれない? 正直、吐き気がするから」
フェイはあくまで穏やかな口調で、毒を吐く。
ディアナは相手の考えを読み取ろうと、沈黙を貫く。
「幸せになっちゃいけないって思ってたってことはさ、何か後ろ暗いことがあるんだよね? 幸せになったら罪悪感を感じるような、何かが」
フェイの飾り気のない言葉が、胸を穿つ。
「まあ、何があったのかは知らないし、詮索する気はないけどさ。……そうやって暗い顔していれば、誰かが満足するって本気で思っているわけ?」
彼の目元が、微かに歪む。
その瞳の奥で揺らめく激情が、さらに波立ったように見えた。
「そんな風に不幸面している姫を見ていると、無性に苛々する。いっそさ、開き直って堂々と幸せになっちゃいなよ。その方が潔くて、好感持てるんだけど」
一旦口を噤み、フェイがぐっとディアナに顔を近づけてくる。
吐息が唇にかかり、ともすれば口づけられてしまいそうだ。
捕食者に追い詰められ、逃げ場を失った獲物の気分になる。
「ねえ、姫。可哀想な自分を演じるのは、もうやめてよ。あんまりうじうじされると俺、怒りのあまり、姫にひどいことしちゃいそう」
「……どうして」
「ん?」
ようやく声を発したディアナに、フェイは微かに眉間に皺を寄せる。
「どうして、フェイが辛そうな顔をするの……?」
ディアナの疑問に、フェイの目が大きく見開いた。
フェイがディアナに怒りをぶつけてくる間、不思議で仕方がなかったのだ。
フェイの言葉にもちろん傷ついた部分もあるが、何故苛立ちを吐き出している彼こそが苦痛に顔を歪めているのか、理解できなかった。
フェイの言動はディアナを傷つけているようで、その実、自分自身を追い込んでいるようにも映ったのだ。
「どうして?」
再度質問しても、フェイは答えない。
そんなことを訊かれるとは微塵も考えていなかったとでも言いたげな表情で、黙ってディアナを見下ろしている。
フェイが口を開くまで待とうと決めた、その時。
すぐ目の前にいたはずの彼が、猛然とした勢いで視界から吹き飛ばされた。