ヴァンジェ ―異端の花嫁と獣の王者―
□Chapter4. 『今宵、貴方とワルツを』
2ページ/12ページ
午前中は晴れていたのに、昼を過ぎたら雲が空を覆い、今では静かに雨が降っている。
だが、あくまで静かな雨だからか、その音がまるでささやかな演奏のようにも感じられた。
ダンスの練習用の簡易的なドレスに着替え、ダンスフロアへと足を運んだディアナは、一度深呼吸をしてからヴァルと向き合う。
この一週間、ベニタにみっちりと叩き込まれ、ヴァルにも可能な限り練習に付き合ってもらったからか、人様に見られても恥ずかしくないほどまでに上達できた。
だから、ヴァルの足を引っ張らないように精一杯頑張ろうと、心に誓う。
練習をするために彼に近づき、ふと湧き上がった疑問に首を傾げる。
「……そういえば、ヴァル。私、まだヴァルの盛装姿見てないけど……それを着て練習をしなくても、大丈夫?」
「ああ、問題ない。盛装って言っても、普段の格好とそこまで動きやすさに差はないからな」
「なるほど……」
確かに、ヴァルは日頃からきちんとした格好をしている。
普段は丈の短いワンピースを身に纏っているディアナとは、わけが違うのだろう。
納得して頷いたところで、そっとヴァルがディアナの手を取る。
ワルツの始まりの合図だと心得ているディアナは、すぐさまヴァルに身を預けた。
そして、ヴァルが傍にあった蓄音機を動かし始めると、音楽が流れて踊り始める。
(それにしても……どうして、ワルツって抱きしめ合うような格好で踊らなきゃいけないんだろう……)
音楽に合わせてステップを踏むうちに、そんな疑問が脳裏に浮かぶ。
ヴァルとの練習を始めた当初は、その密着度の高さに身体が強張って上手く踊れなかったものだ。
今でこそ慣れたが、それでも意識してしまうと羞恥で居たたまれなくなる。
(いやいや、集中、集中……)
余計な考えに囚われそうになったので、急いで意識を身体の動きのみに向ける。
しかし、そこで予期せぬことが起きた。
いや、ワルツの流れは把握しているのだから、予期していなかったという表現はおかしい。
ターンの時には、男性が女性のスカートの中に足を入れる。
その仕草は、ワルツにおいてごく自然な流れだ。
でも、一瞬だけとはいえ、抱きしめられているような状態に気を取られていたからか、ディアナにとっては完全な不意打ちだった。
(こ……これは、さすがに無理……!!)
慣れた動作だと思っていたのに、自分でも信じられないほど動揺してしまう。
とはいえ、咄嗟にヴァルから距離を取ろうと後方に飛び退こうとしたのが、いけなかった。
まだ、突き飛ばすだけなら彼はその場に踏み止まり、体勢を維持できただろう。
だが、勢いよく身を引こうとすれば、ヴァルは片手をディアナの腰にがっちりと回しているのだから、必然的に身体が前のめりになってしまう。
それでもヴァルは足に力を込め、辛うじて転倒を避けてくれたのに、顔の近さに仰け反ったディアナにより、結局は二人して床に倒れ込んでしまった。
(あ……れ……?)
体勢からして、ヴァルに圧(の)し掛かられるようにして倒れたわけだから、てっきり背中を強かに打つと思ったのだが、衝撃が身を貫くことはなかった。
どうやら、彼が腰に回していた腕で衝撃を和らげてくれたらしい。
「ヴァル、ごめんなさ――」
おそるおそる瞼を持ち上げ、誠心誠意込めて謝罪の言葉を口にした途中で、ゆっくりと目を瞬く。
至近距離にあるヴァルの顔が、完全に硬直してしまっている。
もしかして、呼吸さえしていないのではないのか。
顔に吐息がかかるほどの距離にも関わらず、呼吸の音も気配もしない。
その状態がしばらく続いているものだから、だんだん心配になってきた。
「あの、ヴァル……? 息、してる……?」
そう問いかけた途端、ヴァルはようやく我に返ったみたいで、勢いよくディアナから身を引き離した。
これだけ俊敏に動けるなら、命の心配はないだろうと胸を撫で下ろす。
安心したところで上体を起こすと、ヴァルが顔を赤くして俯いた。
「あ、ヴァル。いきなり離れようとしちゃって、ごめんなさい。謝るの、遅くなっちゃった……」
「い、いや……こっちこそ、悪かった……」
「……どうして、ヴァルが謝るの?」
先程の出来事は、完全に事故だ。
その上、その事故の原因はディアナにあるのだから、ヴァルが謝罪する必要は微塵もない。
首を傾げていたら、ヴァルががばっと顔を上げ、こちらを睨みつけてきた。
しかし、耳まで真っ赤になっているため、全くと言っていいほどに迫力はない。
「……何故、お前はそうも平然としているんだ」
「え?」
いきなりどうしたのだろうと思いつつも、正直に質問に答える。
「だって……さっきのは事故でしょう? やましいことは何もない」
「じゃあ、どうしてターンの時、動揺なんかしたんだ!?」
「あれは、事故じゃなくて意図的なものだったから、思わず……」
「その言い方だと、俺がやましいことをしたみたいだろう!!」
「……うん。やましいことされている気分になっちゃったから、本能的に逃げようとしちゃったの」
「そんなわけあるか! それに、それを言うなら、その、先程の体勢の方が余程……」
「うう……それは、私が悪かったです。ごめんなさい……」
「いや、謝って欲しいわけでは……くそっ」
もう頭の中が沸騰しそうなくらい煮え立ち、言っていることが支離滅裂だ。
ヴァルもヴァルで相当混乱しているらしく、低く唸った後に項垂れた。
これはもう、どっちもどっちということで片付けた方がいいのではないのか。
どの口が言うのかと問い質されそうだが、そうでもして割り切らなければ、この空気に耐えられそうにない。
「えっと……私が言うのもおかしな話だって分かっているけど……さっきのことは水に流して、練習の続きしよう?」
「……それもそうだな」
顔を上げた彼と頷き合い、ぎくしゃくとしながらも立ち上がり、もう一度ワルツの練習に取りかかる。
最初はやはり動きがぎこちなくなってしまったが、明晩が本番なのだからと、互いが納得できる結果が出せるまで特訓していたら、終わる頃には二人して色々な意味で疲れ果てていた。