ヴァンジェ ―異端の花嫁と獣の王者―
□Chapter3. 『獣の国』
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二ヶ国の国境線沿いに辿り着くと、さっそくディアナは馬車から下りて周囲の気配を窺う。
国境線付近には、整備された道以外には樹ばかりが生えているだけで、ひなびた印象を受ける。
そうしているうちに、己の身に宿っている力と引き合うものを感じ、誘(いざな)われるようにそちらへと近づいていく。
ディアナの後に続いて馬車から下りたヴァルも、後ろからついてくる。
(……ここだ)
最も力を感じる場所で足を止め、そっと手を翳す。
見えない壁に手を這わせるように滑らせれば、硬質な不可視の結界の感触が指先に伝う。
そして神経を尖らせ、目を瞑って結界の状態を丹念に調べ上げていく。
「……え……?」
予想だにしていなかった調査結果に、思わず目を見開いて眼前の結界を凝視する。
バスカヴィル国とノヴェロ国を阻む結界には、一切の綻びがなかったのだ。
確かに、ノヴェロ国に赴く際、花嫁行列の行きと帰りに結界を操作する巫女が一人参加し、実際に入国する時には結界を解いては塞ぎ、帰国する時にも同じ作業を行ったのだと思う。
つまり、ディアナがこうして調べる前に他の巫女が結界をいじったわけだが、彼女がしたことは花嫁行列が通れる穴を開けた程度のことだ。
何か、結界に大きな影響を与えたとは考えにくい。
(……どういうこと……? 結界が限界を迎えていたから、あんなにも害獣が出没したんじゃなかったの?)
こんなにも結界が正常で、強固な守りとなっていたならば、どうしてあんな悲劇が起きたのか。
一昨日の夜、ヴァルの口から聞かされた言葉が耳の奥で鮮明に蘇る。
『バスカヴィルで起きた出来事は事実として認めるが、ノヴェロまで異常が発生しているとは到底思えない』
本当に、その通りだった。
茫然とただ前方を見据えるディアナに、ヴァルが控えめに声をかけてくる。
「……気は、済んだか?」
その言葉に、力なく項垂れる。
(……私……)
勇み足でここまで訪れたものの、結局ヴァルを煩わせただけだった。
そもそも、何故結界をくぐり抜ける際にこの状態に気がつけなかったのか。
緊張のあまり頭の中が真っ白になっていたからといえばそれまでだが、そんなものは完全にディアナの一方的な都合だ。
(……落ち込んでいるだけでは、駄目。気休めにしかならないかもしれないけれど、最初の予定通り、補強しておかないと)
再び瞼を下ろし、今度は右手だけではなく両手を翳す。
手のひらに意識を集中させ、壊れるはずがないほどの堅固な結界を脳裏に思い描く。
すると、手のひらに徐々に熱が集まり、ある程度のところで熱が一気に四方へと拡散していく。
触れていた結界が僅かに揺らぎ、先程までよりもっと強度が研ぎ澄まされていく。
補強が完了したと認識するのと同時に、翳していた手を下ろしてゆっくりと目を開ける。
後方を振り返れば、ディアナの様子を一部始終見守っていたらしいヴァルと視線が絡み合う。
「……付き合ってくれて、ありがとう」
目が合ってすぐに逸らし、ぽつりと感謝の言葉を零す。
振り回してしまった申し訳なさで、まっすぐに相手の目を見て礼を言うことができない自分に、またさらなる情けなさが込み上げてくる。
そんなディアナを見て何を思ったのかは知らないが、ヴァルは静かに話し始めた。
「……正気を失った害獣がバスカヴィルに出没するということは、必ずしも結界が弱まっているからだというわけではない」
「――え……?」
何の前触れもなく話を始められ、驚いてヴァルを凝視する。
ヴァルはディアナの反応に構わず、淡々と言葉を継ぐ。
「お前は結界の様子がおかしいから、バスカヴィルの事件が起きたと考えたようだが、違う。確かにそんな異変が起きても、そうなるだろうが、それでも時々害獣が出没する時はあるだろう。あれは何故だと思う? その度に、結界に異変が起きているからだと思うが?」
「それ、は……」
ヴァルの言う通り、よくよく考えてみれば、害獣が結界を突破してバスカヴィル国に出没することは、今回に限ったことではない。
今回は規模が大きかったからあれほどの騒ぎになっただけで、今までだって害獣はバスカヴィル国に侵入してきていたのだ。
その理由を考えようと必死に頭の中を整理しようとするが、これまで一度たりとも推測したことがない事柄のため、判断材料が即座には集まらない。
困惑するディアナに、ヴァルはにべもなく言い放つ。
「――本気で暴走した害獣には、結界など通用しない。何故かは知らないが、理性を失った害獣は結界に阻まれることなく、バスカヴィルに忍び込める。……これが、俺が出した結論だ」
告げられた推論に、もう絶句するしかない。
(……結界が、効かない……?)
それでは、自分が今しがた行ったことは無意味だったのか。
歴代のサクリフィスは、何のために尽力してきたのか。
だが、ヴァルの考えを今までの事例に当てはめていけば、納得する他ない。
自分だって、思ったことはあったではないか。
何事にも完璧は存在しないのだと、本来の花嫁行列が出立する日に。
思考を放棄しないように生きてきたつもりだったのに、こんな簡単なことにも頭が回らない自分が、不甲斐なくて仕方がない。
(……できることなら、いっそ泣きたい……)
しかし、ディアナの涙腺は氷のように凍りついているのか、涙が出てくる気配は砂粒ほどにもない。
再度項垂れたディアナの耳に、ヴァルの優しい声が滑り込んできた。
「――だから、あまり自分のことを責めるな」
「……え……」
のろのろと顔を上げれば、じっとこちらを見据えるヴァルの凛とした眼差しに視線が吸い寄せられる。
戸惑いながら見つめ返していると、彼はそっと目を伏せた。
「お前は、その……責任感が強過ぎる。一生懸命になり過ぎているんだ。何もかもがお前の責任というわけではないんだから、少しは肩の力を抜け」
最初は何を言われているのか理解できず、微かに眉間に皺を刻んでいたが、ヴァルの言葉の意味を噛み砕いていくうちに、彼の真意がようやく見えてきた。
(ヴァル……慰めようとしてくれているんだ……)
不器用なりにも、精一杯に言葉を尽くして想いを伝えてくれようとしてくれたのだ。
そう理解した途端、胸の奥が甘く疼いた。
多分、今の自分は喜んでいるのだ。
自分のことなのに曖昧にしか気持ちを捉えられないなんておかしな話だが、それだけ様々な感情が入り乱れてしまったのだ。
温かくなる胸をきゅっと押さえ、ヴァルをまっすぐに見つめる。
「――ありがとう、ヴァル」
ヴァルには一体、どれだけ感謝の念を伝えれば、ディアナ自身が納得できるのだろう。
おそらく、一生かかっても無理そうだ。
だから、可能であればずっと伝え続けたい。
そんな想いを胸に、ヴァルと共にその場を後にした。