ヴァンジェ ―異端の花嫁と獣の王者―
□Chapter1. 『身代わりの花嫁と獣の王者』
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突如として放たれた怒声が、頭の奥まできんきんと響く。
耳鳴りまでする始末で、つい耳を押さえる。
声の主を見遣れば、蜂蜜色の短髪とブルーの瞳が印象的な、壮年の王立騎士団長――レイフが荒々しい足取りで、部下を数名引き連れて玉座の間へと乗り込んできた。
ディアナの前でぴたりと足を止めると、目を丸くする大臣たちをぐるりと見回す。
「この少女が、どれほど勇猛に害獣と戦ったか知らないから、そんな腑抜けたことをぬけぬけと言えるのだ! このたわけめが!!」
「……なっ!?」
一際大きく玉座の間に響き渡った声に、大臣たちはものの見事に絶句する。
だが、それはディアナも同じだった。
ぽかんと口を開き、忙しなく瞬きを繰り返す。
(この人、どうしてそんな喧嘩腰なの。明らかに相手の方が格上だって分かっているのに、罵声なんか浴びせちゃうの。どうして――私なんかを庇うの)
信じられない。
その一言に尽きる。
レイフは茫然と立ち尽くす一同を睨みつけ、尚も言い募る。
「この少女――いや、ディアナ殿は不甲斐なくも部下の指揮を取れていなかった私に代わり、率先して場の混乱を鮮やかな手腕で治めてくれた。それだけではない! 彼女は誰よりも、人に仇為す害獣を討ち取ったのだぞ!? しかも、真っ先に動いた者こそがディアナ殿だ!! 彼女に命を救われた騎士も、一人や二人ではない!! そうだろう? お前たち」
レイフは背後を振り返り、後ろに控えていた騎士たちに話の矛先を向ける。
すると、彼らは臆することなくディアナに視線を向けた。
騎士たちの瞳には僅かな怯えもあるが、それ以上に憧憬の色を滲ませていた。
「はい! 団長のおっしゃる通り、ディアナ殿には危ないところを助けて頂きました。……あの時は礼を言いそびれていましたね。本当に、ありがとうございました!!」
「自分も、彼女がいなければ今この場にはいなかったと思います。それなのに、あの時は無礼な物言いをしてしまい、本当に申し訳ありませんでした!! そして……ひどいことを言ってしまったのに、最後まで見捨てず守ってくださって、ありがとうございました!!」
騎士たちが一様に、ディアナに向かって深々と頭を下げる。
その中には、驚くことに草原でディアナを化け物と呼んだ者までいた。
しかし、そのことを心の底から悔いて真摯に謝罪してくれた。
それは、言葉の端々から、声色から感じ取れる。
(別に、わざわざ謝ってくれなくていいのに。……お礼なんか、しなくていいのに)
彼らの嘘偽りない言葉の数々に、心が震える。
熱いものが込み上げてくる。
虫が良過ぎるとも、思わなくはない。
今さら謝ったところで、口にした言葉が消えるわけではないと、捻(ひね)くれた考えも脳裏に浮かぶ。
でも、そんな可愛げのない心の声が浮かび上がってもすぐに消えてしまうくらい、素直に嬉しかった。
思っていたよりも、自分は単純にできているらしい。
完全に圧倒されてしまっている大臣たちに、レイフはさらにまくし立てる。
「大体、疑わしいのであれば即刻身体検査をするなり、身辺調査をするなり、証拠集めにアリバイ確認に、することは山ほどあるだろう!! それなのに、一人の少女を取り囲んでねちねち、ねちねちと厭味ったらしい言葉ばかり重ねおって……。恥を知れ!!」
さすがは王立騎士団長といったところか。
最後の一喝で、大臣たちはすっかり竦み上がってしまった。
王立騎士団長ともなれば、迫力が他の騎士とは格段に違う。
レイフは咳払いをすると、素早く意識を切り替えたらしく、その声音は落ち着いたものへと戻った。
「……ウォーレス殿。不肖レイフ、王立騎士団長の地位を賜っておきながら、ディアナ殿の助けを借りずして、この事態の収束を図れなかったこと、誠(まこと)に申し訳ない。この失態、今後の働きにて挽回する所存」
これまた深々と頭を下げたレイフに対し、ウォーレスは淡々と切り返す。
「……私は、愚か者と役立たずは嫌いだ」
ウォーレスに厳しい物言いをされても、レイフは頭(こうべ)を垂れたまま動かない。
「だが、貴様のような馬鹿は嫌いではない」
続けられたウォーレスの発言に、レイフが微かに息を呑む音が聞こえてくる。
「同じ過ちを繰り返さぬと誓ったこと、決して忘れるな。何度も同じ失敗を繰り返すようなら、貴様はいらない。だが、今はこの国にとって有益な存在だ。……そこの老害共とは違ってな」
ウォーレスは冷笑を湛え、大臣たちへと視線を投げる。
その目は、明らかに彼らを見下していた。
そして、確かな怒りも読み取れる。
(……ウォーレス、ものすごく怒っている)
おそらく、己の手駒であるディアナを侮辱されたことが、ウォーレスの逆鱗に触れたのだろう。
ウォーレスは、己の所有物と見なしているものを侮辱されるのを、ひどく嫌う。
大臣たちもそんなウォーレスの性格を知らなかったわけではないだろうが、まさかディアナがそこまで高く評価されているとは思ってもみなかったのだろう。
ディアナもまた、ウォーレスにここまで高く買われているとは露ほどにも思っていなかったので、内心では眉を顰(ひそ)めていた。
彼らの顔はみるみるうちに青ざめ、その表情はしまったと言わんばかりに歪められている。
大臣という、女王が開く会議で意見を許される立場の者たちが情けないと思ったが、ある意味では仕方がないのかもしれない。
(実質、今のバスカヴィルはウォーレス一人の力で動いているようなものだし……)
胸中でそこまで呟いた途端、その言葉の重みに背筋が寒くなる。
この国では、ウォーレスの発言力は計り知れない。
たとえば、大臣の中で国にとって価値がないとウォーレスに判断された者がいたとしたら、為す術もなく今の地位を取り上げられることも充分に考えられるのだ。
(だから、大臣たちはウォーレスの機嫌を損ねることを、あそこまで怖がっているんだ……)
今にも震え上がりそうな大臣たちから目を逸らすと同時、レイフがもう一度部下に対して声を張り上げた。
「お前たち、マリウス殿下の遺体をお運びしろ。くれぐれも丁重にな」
レイフの指示に騎士たちは短く返事をすると、即座に行動を移した。
レイフは、血溜まりに伏している人物が誰であるのか、一目で見抜いたらしい。
彼の観察眼の鋭さに、密かに感嘆させられる。
担架を取りに騎士団の営所へと向かった彼らの後ろ姿を見送っていたら、ふと誰かに頬を撫でられる。
視線を上げれば、そこにはこの場にそぐわぬ笑みを湛えたウォーレスの姿があった。
彼の瞳にはどこか恍惚とした色が浮かんでおり、ぞくりと背筋に悪寒が走る。
「……何、しているの?」
震えそうになる声を極限まで押し殺し、あくまで冷静に問いかける。
すると、ウォーレスはどうしてかますます笑みを深めていく。
「いや? キャレブ団長が現れなければ、私は大臣の一人か二人、見せしめに何らかの刑に処していたかもしれない、と考えていただけだ」
ウォーレスがゆったりとした口調で紡いだ言葉に、大臣たちはまた竦み上がる。
そんな彼らを横目で眺めつつ、ディアナはそっと口を開く。
「……この程度のことで処刑だなんて、馬鹿げている」
「ディアナ、お前は自分の価値を全く理解していない」
本音を吐き捨てたディアナに反し、口元に笑みを刻んだままのウォーレスに、頬をするりと撫で上げられた。
その動作が不気味に映り、自然と息を詰める。
「お前は、私にとってもこの国にとっても、特別なんだ」
どういう意味かと問い詰めようとした時、レイフがさりげなくウォーレスの肩を軽く掴む。
「……ウォーレス殿、今は即刻会議の間に場を移し、今後の方針を決めるべきではありませぬか」
レイフの進言にウォーレスは少し考える素振りを見せてから、緩慢とした動きでディアナの頬から手を離す。
「それもそうだな。では、さっそく会議の間に向かおう。……ディアナ、お前は自宅に一旦引き揚げ、まずその格好をどうにかしろ」
「う、うん……」
ぎこちなく頷き、おそるおそるレイフへと視線を動かす。
だが、彼は既にこちらに背を向け、この場を後にするところだった。
(もしかして、私のことを助けてくれた……?)
考え過ぎかもしれない。
ただ単に、戯れにディアナに構っていないで、早く現状を打開するべくウォーレスに動いて欲しかっただけなのかもしれない。
(でも、たとえそうだとしても――)
ディアナにとっては、レイフの行動はひどくありがたく感じられたのだ。
あのままウォーレスに狂気じみた目で見つめ続けられていたらと思うと、身体の芯から冷えていく気がしたから。