ヴァンジェ ―異端の花嫁と獣の王者―
□Chapter1. 『身代わりの花嫁と獣の王者』
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「……ひっ……!?」
か細い悲鳴が、鼓膜に突き刺さった。
視線を巡らせれば、玉座のところで弱々しく座り込んでいる、儚げな女性――クラウディアと目が合った。
さざ波を描く亜麻色の髪は頼りなく揺れ、エメラルドグリーンの瞳は零れんばかりに見開かれている。
クリーム色の柔らかな素材で作られたドレスの裾は、無残にも血に濡れていた。
臭いからして、マリウスの血で汚れてしまったのだろう。
当代のバスカヴィル国女王であるクラウディアは、王位に就いているとはとても思えないほど、怯え切った眼差しでディアナを凝視してくる。
どうしてそんな目で見つめてくるのかと一瞬疑問に思ったが、即座に自分が返り血を一身に浴びた、ひどい姿をしていることを思い出す。
こんな格好のままでは、怖がられて当然だ。
これ以上クラウディアの目に自分の姿が触れないよう、すぐさま踵を返そうとした矢先、突然彼女が耳につんざくような叫びを上げた。
「ごめんなさい! ごめんなさい……!! 私たちが、『貴女』を見捨てたから……!! だから、こんなことに……!!」
クラウディアの恐怖に満ちた視線の先にいるのは、間違いなくディアナだ。
何故、ディアナごときにそんなに必死に謝っているのかと、眉間に皺を寄せる。
(そもそも、見捨てたって……どういう意味?)
全くもって、意味が分からない。
判然としない気持ちのまま、そっと一歩踏み出す。
「女王陛下、一体どうして――」
「ぃ……いやあああああああああああああ!! ごめんなさい! ごめんなさい!! ごめんなさい!! 私たちが悪かったの!! だから赦して!! お願いだから……!!」
ディアナが慎重に声をかけた途端、クラウディアは完全に錯乱状態に陥ってしまった。
半狂乱になって叫ぶクラウディアの言葉の意味は、依然として理解不能だ。
(もしかして、私じゃない誰かに言ってるつもりなの……?)
そんな考えが一瞬脳裏を掠めたものの、やはりクラウディアの瞳が捉えているのはディアナの姿だった。
クラウディアの怯えようは尋常ではなく、今や正気を失っているようにも見える。
そんなクラウディアを見かねてか、ウォーレスが鋭く指示を飛ばす。
「誰か、陛下付きの侍女を連れてこい!! あんな風に取り乱されては、陛下のお身体に障る!!」
ウォーレスの言葉に、小さく息を呑む。
そうだった。
クラウディアは、ひどく病弱なのだ。
それなのに、ああやって叫び声を上げていては無駄に体力を削いでしまう。
体力が落ちれば、病気にかかった時に免疫力も低下してしまう。
この状況下で、そこまで気を回すことができるウォーレスはやはり有能で、どんな状況でも冷静さを失わない宰相なのだろう。
ウォーレスの声掛けに応じるようにして、ほどなく侍女たちが玉座の間へとやって来た。
侍女たちは玉座の間に広がっている惨状に、一瞬怯みかけたものの、主が頭を抱えてついには泣き出してしまったことに気がつくと、表情を引き締めてクラウディアの元へと駆け寄った。
クラウディアを落ち着かせようと侍女たちは宥め、数人がかりでへたり込んでいる主を立たせ、ゆっくりと玉座の間を後にする。
入れ違いに、遅れてヒースも姿を見せる。
(あれ……? そういえば、ヒースは今までどうしていたんだろう……?)
疑問に思って首を捻っていると、つかつかと歩み寄ってきたヒースがディアナの耳元で口早に囁く。
「……念のため、城の内部をざっと見て回ってきましたが、他に被害はありませんでした。この件の被害者は……どうやらあの御方だけのようですね」
ディアナの耳元から顔を離したヒースは後方へと視線を投げ、すっと目を細める。
ディアナは花嫁行列への参加が決定した際に、女王と王婿に挨拶に出向いたからマリウスの容貌を知っているが、ヒースは一度たりとも顔を合わせたことがないため、絶命している人物が誰なのか見当がつかないのだろう。
「うん……マリウス殿下だけ」
「あの御方が、マリウス殿下なんですか?」
「そう」
こくりと頷けば、ヒースは思案げに顎に手をかける。
彼なりに、この状況を整理しているのだろう。
とりあえず、ウォーレスに指示を仰ごうとした直前、潜められた声が耳朶を打つ。
「誰が、殿下にあのような仕打ちを……」
「あそこの獣人の娘の仕業ではないのか? あんなにも残酷な方法を用いるのは、あの娘としか考えられぬような……」
「まさか、我々人間に報復を?」
「害獣の手引きをしたのも、あの娘かもしれんな」
「王女殿下を案じている素振りを見せながら、実際のところはその手で王女殿下を殺害したのでは?」
「あの、赤髪の男も関わっているのか?」
「いや、あの男はマリウス殿下のご尊顔を知らぬ様子でしたぞ」
「では、あの小娘一人でこの一連の事件の全てを……」
「なんという罪深きことを……」
大臣たちの囁きは次第に熱がこもり始め、いつしか非難を込めたどよめきへと様変わりした。
その上、どうしてかディアナへ疑惑の目が向けられ始めた。
(……どうしてか? ううん、理由なんて分かっている)
怒涛の勢いで次々と恐ろしい事件が起きたものだから、皆、早く犯人を見つけて不安を払拭したいのだ。
だからこそ、異端者であるディアナを犯人に仕立て上げ、糾弾しているのだろう。
返り血を頭から被り、硝煙の臭いを漂わせている姿が、より彼らの勢いに拍車をかけているに違いない。
(……まあ、言いたいだけ言わせておこう)
どうせ徹底的に調査を始めれば、ディアナの身の潔白は証明されるのだ。
こちらには一応、騎士という証人もいることだし、大臣たちの勝手な言い分を気にする必要はない。
ここは大人しく、彼らの気が治まるまで待つべきだ。
横目で隣を窺えば、ヒースが静かに殺気立っていたから、そっと手で制する。
すると、彼は何故止めるのかと目で訴えてきた。
冷静に考えれば、ここは下手に騒ぎ立てないで沈黙を貫くのが得策だと一目瞭然のはずなのに、ヒースにしては珍しく平静を欠いているらしい。
(……私のために、怒ってくれている。ここで反論すれば、ヒースまで巻き込まれちゃうかもしれないのに。絶対に損しちゃうのに)
ヒースの怒りがひしひしと伝わってきて、不謹慎だと自覚しながらも救われた気持ちになる。
あとで感謝しなければと思った瞬間、威勢のいい声が鼓膜を激しく震わせた。
「この愚か者共!! 民を身体を張って守った少女が、一連の事件の犯人であるわけがないだろう!!」