ヴァンジェ ―異端の花嫁と獣の王者―

□Prologue. 『消えた姫』
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突如耳に飛び込んできた声にはっと目を見開き、慌てて立ち上がる。

そして声の主へと勢いよく振り返れば、神官の制服を身に纏った、小麦色の髪と葡萄色の瞳が印象的である、眼鏡をかけた端正な顔立ちの男性が怪訝そうにディアナを見つめていた。

「……ギディオン様……」

「珍しいな。気配に敏いお前が、声をかけるまで私の存在に気づかないなど」

「……ごめんなさい。少し、考え事をしてて」

「まあ、お前の場合は敏感過ぎるくらいだから、そのくらい鈍い方が生きづらくなくなるんじゃないか」

「私にとっては、ギディオン様が祈り場に足を踏み入れる前に、誰かが近づいてて、その気配が誰のものか判別できるのが、普通なんですけど」

「……お前はさぞかし、生きるのに苦労しているのだろうな。まったく、あの愚弟の所為で……」

ディアナを気遣う素振りを見せる男性――ギディオン=ウェイスバーグは、苦々しく言葉を吐き捨てる。

質問に答えず、はぐらかしたディアナを咎めたりせず、他の話題を振ってくれたギディオンは、本当に優しい人だ。

その気遣いに心の中で感謝したところで、すぐにギディオンの言葉に意識を戻す。

ギディオンが口に出した愚弟とは、彼の双子の弟のことであり、ディアナの保護者に当たるバスカヴィル国の宰相――ウォーレス=ウェイスバーグのことだ。

ディアナもウォーレスに関しては色々と思うところがあるが、それでも恩人であることには変わりはない。

一応弁護しようと、控えめに口を開く。

「ウォーレスには確かに気配を察知する訓練を受けさせられましたけど、元々敏感でしたから」

ギディオンを様付けしているのに、ウォーレスのことは呼び捨てにしているのは、ディアナの保護者は様付けされることをひどく嫌うからだ。

理由は不明だが、変なところで対等であろうとしているらしい。

ディアナが呟くようにして言えば、ギディオンは深々と溜息を吐く。

「……本当に愚弟の所為ですまない、ディアナ。兄として謝罪しておく」

「いいですよ、気にしていませんから」

「あれは昔から人を気遣うということを知らない奴だが、まさかここまでとは思っていなかった」

そもそも、ギディオンはウォーレスがディアナのことを引き取ったこと自体が、気に入らないらしい。

この神殿で最も地位のある筆頭神官を務めているギディオンは、ディアナのことを神殿で引き取りたかったみたいだ。

その真意は間違いなく、ディアナが遥か昔に授けられたと言われる神の力――莫大なフォルスを秘めているからだろう。

しかも、ギディオン曰く、今のバスカヴィル国で最もフォルスを持っているのがディアナなのだという。

でも、ディアナの境遇は巫女にするにはあまりにも問題があり、結局この国の政治の実権の多くを握っているウォーレスの言葉に従うしかなかった。

ディアナも可能であれば神殿に身を置きたかったが、我が身を振り返れば、そう主張することさえおこがましい気がして、何も言えなかった。

そして何より、ギディオンが憤っている最大の理由は、引き取った後のディアナへの扱いだろう。

だが、ディアナはそうなることを承知の上でウォーレスの手を取ったわけだから、彼についてあれこれ批判する権利は自分にはない。

その後も続くウォーレスに対する苦言に大人しく耳を傾けていたら、不意にギディオンは手にしていた書類をこちらへ手渡してきた。

受け取った書類に一度目を落としたものの、何やら重要そうな単語が視界に飛び込んできたので、即座に顔を上げる。

これは、ディアナが見ていいものではない。

「……これは?」

「あの愚弟に渡しておいてくれ。本当は私が直接渡したいのだが、あいつはあちこち動き回っていて、なかなか捕まらないからな。その上、あの馬鹿の所為で今回の花嫁行列は異例尽くしになったからな。前日だというのに、こちらも準備が全ては終わっていない有様だ。だから悪いが、代わりに届けて欲しい」



――花嫁行列。

それは、獣害により壊滅寸前まで追い込まれたという国を救済した巫女――フローラに由来する儀式の一つだ。

国を救ったフローラはサクリフィスと呼ばれ、バスカヴィル国では救世主であり、信仰の対象でもある。

そして、フローラが国を救った方法とは、バスカヴィル国の民の中からこれ以上の被害が出ないようにと、自らを囮にして獣たちをバスカヴィル国の南部へと誘き寄せ、そこにフォルスによって創り出した堅固な結界を張り巡らせたのだという。

獣たちからしてみれば、それは牢獄そのものだ。

その後、詳細は一切明らかにされていないが、フローラは何故か獣たちに人の姿を与えたと伝えられている。

人の姿を与えられた獣は獣人と呼ばれ、彼女の力を以ってしても尚、人の姿に擬態できない獣は害獣と呼ばれている。

さらには、その結界で覆われた区域にノヴェロ国という小国まで建国した。

それだけではなく、フローラは王者に据えられた最も力ある獣人―― 一番初めに姿を見せたとされる獣の花嫁になったのだと、伝承には残されている。

また、フローラは救世主として祀り上げられたがために、形式上とはいえ、初代バスカヴィル国女王になったともいう。

その過程で、彼女はバスカヴィル国とノヴェロ国、どちらにも跡継ぎを残したのだとされている。

そして、フローラの子供たちをノヴェロ国の結界維持のために、政略結婚させたのだと聞いている。

それが、バスカヴィル国王の娘がノヴェロ国王の代替わりごとに嫁ぐ制度が確立された発祥だと、伝承では残されている。

つまり花嫁行列とは、ノヴェロ国に嫁ぐバスカヴィル国の王女に畏怖と感謝の念を込めて華々しく送り出す、国で最も重要視されている行事だ。

加えて、ノヴェロ国に嫁ぐ王女はフローラのように、誇り高く祖国を守れという意味合いを込め、フローラと同じサクリフィスの称号が贈られる。

だからフローラは、初代サクリフィスということにもなる。

しかし、もちろん近親相姦の末に産まれてきた子供が、王に相応しい才覚を持てるはずがない。

やはり、どうしても何かしらの形で弊害が出てしまうのだ。

獣人たちは姿こそ人間と変わらないが、その本質は獣だ。

そのため、力なき王には従わない。

その結果、ノヴェロ国では血統にこだわらず、その時代ごとに最も力ある獣人を王とする制度が確立されたらしい。

そして今も尚、その慣習は一度の例外もなく続けられている。



(……初代サクリフィスの話は考えれば考えるほど、本当に実在していた人物なのか怪しくなってくる……)

初代サクリフィスが生きていたとされる時代は今から五百年ほど昔のことらしいから、確かめる術はない。

現代みたいに写真がある時代ではないし、今でも貴族でもなければ、なかなか写真を撮る機会には恵まれない。

それだけ、カメラは高級品なのだ。

それはさておき、自分が抱いた疑問へと改めて意識を向ける。

(何だか、ただの巫女にしては合理的過ぎる気がする)

ただの巫女ではなかったからこそ、国を立て直しただけではなく、女王と王妃という重責のある立場を一度に引き受けられたのだろうが、それにしても一人の人間が成し遂げられたとは考えにくい功績を残している。

もちろん、フローラ一人だけが尽力したわけではないだろうが、あまりにも出来過ぎているという印象が拭えそうにもない。

あくまで伝承として受け取れればいいのだが、この国でれっきとした歴史として扱われている以上、あまり強くは否定できない。

フローラに疑心を抱くこと自体が不徳とされているこの国で、そんな意見を口にしようものなら、初代サクリフィスと初代バスカヴィル国女王への冒涜だと責められ、牢に入れられかねない。

それに、ディアナ一人が勝手に不信感を抱いたところで、何かが変わるわけでもないのだ。

それでも、こんなことを考えてしまうのは――。

「――不安か?」

黙りこくっていると、もう一度同じ問いかけを受ける。

「王女の代わりに、結界維持の役目を果たすことになってしまって」

そう、微弱なフォルスしか持たない今の王女では、結界維持の役割はこなせない。

そして、当代の王族で王女はその一人しかいない。

だからディアナは表向きは花嫁の侍女として、サクリフィスの役目を代わりに果たすべく、共にノヴェロ国へと行かなければならない。

ディアナを案じるギディオンに余計な心配をさせまいと、淡く微笑んだ。

「不安は……ありません。ただ、姫に申し訳なさと罪悪感があるだけです」
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