ヴァンジェ ―異端の花嫁と獣の王者―

□Prologue. 『消えた姫』
2ページ/13ページ

『遥か昔、一柱の神が清らかな少女たちに力を授けた。
神は決して万能ではない。
もし地上に困難が降りかかった時は、神に救いを乞うのではなく、まずは自分たちの力で乗り越えられるようにするために。

だが、大き過ぎる力を得た少女たちは私利私欲に駆られてしまうかもしれない。
あるいは、権力を持つ者たちに利用されてしまうかもしれない。

様々な懸念から、少女たちを内外の欲求から守るために、神に仕える神官が神殿で彼女たちの保護をした。
そして、神殿周辺には身辺警護を任された兵たちが配置された。
この神官こそが我が国――バスカヴィル国を切り拓いた、初代バスカヴィル王であり、少女たちは原初の巫女であり、兵たちは原初の騎士である』



神殿内の静謐な図書室では、ページを繰る音がやけに大きく聞こえる。

図書室の天井は高く、ステンドグラスが嵌め込まれた天窓から降り注ぐ光が本に反射し、そこに書き込まれている文字を浮き彫りにさせる。

青い絨毯を敷き詰めた床、乳白色の壁、深みのあるダークブラウンの本棚に取り囲まれた広い空間において、バスカヴィル国の歴史書を読み耽っている少女は、ひどく目立っていた。

神秘的とも呼べる見事な銀髪は、髪の長い女が美しいと評されるこの西大陸の価値観に反し、肩より上のところで切り揃えられており、毛先は内側に向いている。

それなのに、顔のすぐ脇に垂れている髪の長さは胸元に達しそうなほどあり、垂れ耳うさぎを彷彿とさせる。

頭のてっぺんで結ばれている黒いリボンがまた、うさぎに似ているという印象を見る者に植えつけた。

身に纏っている白いブラウスと、襟や袖口、裾が漆黒のレースで縁取られている、黒いワンピース、襟元で結んである黒いリボンタイの組み合わせは清楚さと可愛らしさを漂わせている。

ワンピースの袖は、肘の辺りから手首のところにかけてふんわりと広がっており、幼い夢見る少女たちが思い描く、王女のドレスを連想させる。

だが、豊満な胸を強調するように胸の真下から背中にかけて結ばれているグレーの細いリボンや、太腿の半ばほどしかない、どことなく身体の線に沿っているワンピースの丈の短さが、どこか扇情的だ。

さらに、ワンピースから覗く肉感的でありながらも、引きしまった長い足は黒のニーハイソックスで覆われており、露出している素肌にはワンピースの裾のレースがかかっていて、艶めかしさに拍車をかけている。

それでいて、黒いリボンがついている同じ色のショートブーツは、やはり愛らしさを醸し出している。

そして極めつけは、その顔立ちだ。

肌は抜けるように白いのに、決して血色が悪いわけではなく、頬は薔薇色に染まっている。

目鼻立ちは精緻な人形のごとく整っており、すれ違う者が振り返らずにはいられないほどの美しさだ。

花びらに似た唇はまるで誘っているようにも感じられ、今は伏せられている垂れ目がちで大きなエメラルドグリーンの瞳は、一度見つめられたら吸い込まれてしまいそうな魅力がある。

可憐さと妖艶さを兼ね備えたその姿は、さながら匂い立つ花のようだ。

神官職を目指す学生や神官から絶え間なく視線を向けられるほどの美少女――ディアナは、それらに一切構うことなく歴史書に目を通していく。



『しかし、ある時バスカヴィル国で奇怪な獣が突如として現れた。
見た目は何の変哲もない、森の中を探せばいくらでもいる狼そのものだった。
そして、この獣は何の前触れもなく人々を襲った。
ここまでなら、奇怪な獣でも何でもないだろう。

だが、狼に噛みつかれた人間は皆、一人残らず獣の姿へと変貌したのだ。
その上、最初に現れた獣同様、元は同じ人間を襲い始めた。
この獣がもたらした被害を、人々は獣害と呼ぶようになった。

国中が大混乱に陥り、このまま人間は獣の餌食になるかと思われたその時、神殿の一人の巫女がこの事態を収束した』



(……今さら、この先まで読み返さなくてもいいか)

そこまで読み進めたところで、分厚い歴史書を静かに閉じる。

ディアナが読み進めていたところは、ほんの最初の部分に過ぎないが、この国の原点について改めて確かめたかっただけだから、その後の出来事まで調べる気は起きなかった。

小さく吐息を漏らして椅子から立ち上がると、歴史書を元あった本棚へと戻し、図書室から退室した。

普段のディアナならば、こうして人目に触れる場所に一人で足を運んだりしないのだが、明日にはこの国からいなくなるからだろうか。

既に知っているバスカヴィル国の成り立ちを頭に焼き付けておきたくて、自然と神殿の図書室へと足を運んでいた。

(……別に、この国に思い入れがあるわけじゃないけど)

どちらかと言えば、消し去りたい記憶ばかりだ。



――化け物……!!



常日頃は心の奥底に沈め、忘却の彼方へと追いやっていた記憶の断片が不意に湧き上がり、無駄のない所作で動かしていた足を止める。

神殿には昼過ぎにやって来たのだが、今はもう西日が射していて辺りは茜色に染まっている。

その色は自分が最も嫌悪するものを想起させ、息が詰まりそうになってしまう。

胸の辺りがずくりと痛んだが、即座に感情を殺す。

元々感情の起伏の少ない顔は、今ではより仮面を被った人みたいに、何の表情も読み取れないものになっているだろう。

しかし、それでいい。

心などあってもなくても、ディアナには関係ないのだから。

しばし止めていた足を再び動かし、今日のもう一つの目的地へと向かう。

大きなホールを抜けて神殿の最奥へと踏み入れれば、そこは水場が広がる祈り場だ。

水場を貫く形で伸びている、見事に磨き抜かれた艶やかな細い石床の上を淀みなく進み、両手で抱え切れないほど大きな水晶が祀られている祭壇の前で跪く。

そして、目を閉じて祈る。

(――どうか、大任を果たせますように)

そう祈ったところで、結局自分に与えられた役割を全うできるかどうかは、己の努力次第だ。

それでも、普段祈りを捧げる際には自室にある神殿の水晶を模した小さな置き物で済ませているディアナが、こうしてわざわざ祈り場まで訪れたのは、自信がないからだろう。

己の力量にではなくディアナのこれまでの境遇が、どうしようもなく心に影を落とす。

(だって、私、は――)

「――そんなに明日のことが不安か?」
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ