ヴァンジェ ―異端の花嫁と獣の王者―
□Chapter15. 『解放』
1ページ/12ページ
目の前が再び闇に閉ざされても尚、今の今まで目にしていた光景が、瞼の裏に焼きついて離れない。
意味がないと理解しながらも、何度も叫んだために疲れ果ててしまった喉からは、もう声が出てこない。
ただ、震えた吐息だけが鼓膜を震わせる。
(あれが……ディアナの過去なのか……?)
愕然と、目の当たりにしていたディアナの過去をまざまざと思い返す。
ディアナは一体、ヴァルと出逢うまでの残りの数年間を、どうやって過ごしてきたのか。
いや、考えるまでもない。
ディアナは、自分の心を殺すと決めたのだ。
きっと、人形のように淡々と日々を過ごしていたのだろう。
ふと、彼女が弱々しい声で訴えていたことを思い出す。
――だって……私は汚いことに手を染めていたから、考え方まで卑怯で卑屈で……全然ヴァルと釣り合っていない。
どんな想いで、この言葉を口にしたのか。
あの時の、ディアナの今にも泣き出しそうな顔が脳裏に蘇る。
彼女はずっと、幸せになることに怯えていた。
たかが祭りを楽しんだだけでも、罪悪感に駆られるほどに。
本人の口から大まかな説明は受けていたが、実際の生々しい記憶は、ヴァルの稚拙な想像を遥かに超えていた。
理解しているつもりでいながら、実のところは全くディアナの苦しみを分かっていなかったのだ。
(俺は……本当の意味であいつを幸せにできるのか?)
そもそも、ヴァルの好意がディアナにとってどんなものなのか、よく分からない。
向こうに迷惑がっている素振りがなかったから、好意を伝えることは許されているのだと解釈していたが、本当は負担になっていたのかもしれない。
(何故……)
ディアナは自分の想いを、あまり表には出してくれないのか。
辛い時は辛いと、苦しい時は苦しいと言葉で伝えてくれないのか。
伝えてくれたと思った時には、いつもどうしようもなく傷ついている。
もっと傷が浅いうちに言ってくれればいいのにと思うのに、彼女は気持ちを心の奥底に秘めてしまう。
だが、あんな過去を抱えているディアナからすると、弱音を吐くことさえも罪深く感じるのかもしれない。
少しずつ、今まで腑に落ちなかったことが氷解していく。
些細な言葉に、彼女が衝撃を受けたような目つきになったかと思ったら、ひどく傷ついた顔をした理由も。
楽しそうにしていた傍で、恐怖心に駆られるのも。
自分の殻に閉じこもり、他者の干渉を拒絶しようとするのも。
全て、あの過去に起因するのだろう。
(何故……あの時、ディアナを助けたのが俺じゃなくて、あの宰相なんだ……)
もし、あの時手を差し伸べたのがヴァルだったなら、絶対にディアナを傷つけはしなかったのに。
ディアナを害する全てから、守れたのに。
暗闇に覆われた世界で、そんなことを取り留めもなく考えていたら、不意に前方に一条の光が差した。
突然訪れた変化に疑問を抱き、そちらへと足を踏み出す。
すると、ぼんやりと闇の中に浮かび上がったものに息を呑む。
そこにあったのは、巨大な鳥籠だった。
純白の鉄格子で作られている籠の中には、無数の茨に身体を絡め取られている、彼女の姿があった。
まるで磔(はりつけ)にされた罪人みたいに、鳥籠の鉄格子に茨ごとくくりつけられている。
気を失っているのか、ディアナはぐったりと目を閉じている。
茨の棘が布を食い破って素肌に食い込み、じわりと鮮血が滲んでいる。
咄嗟に駆け寄ろうとしたら、唐突に子供の泣き声が聞こえてきた。
そちらへと目を向ければ、長い銀髪を有する幼い少女が、地面に座り込んで泣きじゃくっていた。
涙に濡れたエメラルドグリーンの瞳と視線が絡んだ途端、心臓を直接手で握り締められた錯覚に陥る。
「ディアナ……?」
何故か、そこには記憶を再構成した光景の中にいた、幼いディアナの姿があった。
もう一度籠の中に視線を戻すが、そこにいるのもまた彼女だ。
(何が、どうなっているんだ……?)
そんな風に二人の姿を見比べていると、幼いディアナが淡い桃色の唇を震わせ、そっと開いた。
「……どうして、誰も私のことを助けてくれないの……?」
哀しみに暮れた顔が、涙でくしゃりと歪む。
「生きていたいって願うのは、そんなに悪いことなの……?」
ごく当たり前に享受されるはずの権利を悪いことなのかと問う幼い少女は、ひどく苦しそうだ。
「……私はただ、死にたくなかっただけなのに……。本当は、人殺しなんてしたくなかったのに……! どうしてウォーレスは、誰かの命を奪えって命令するの……!? そうしなければ、無理矢理言うことを聞かせようとするの……!? 私が化け物だから? だから、ウォーレスの言いなりになるしかなかったの……!?」
ディアナはきつく瞼を閉ざし、両手で耳を塞いで頭を振る。
「あの時、ウォーレスの手を取らないで、死ぬのが正しかったの……?」
消え入りそうな声音で紡がれた疑問に、驚愕に目を見開く。
そして、同時にやるせない気持ちが込み上げてくる。
(ああ、こいつは――)
――死にたくないと願ったことさえ、罪だと思っているのか。
生きるために他者の命を蹂躙するしかなかった自分が、嫌で仕方がないのか。
目を閉じても尚、睫毛の隙間から大粒の涙が溢れ出し、白く滑らかな頬を伝い落ちていく。
「私が、化け物だから――」
――化け物。
ディアナが記憶のない状態で目を覚ましてすぐに浴びせられた、呼び名。
どんな気持ちで、彼女にとって心を抉るだけの呼び名を受け止めてきたのか。
どんな気持ちで、ディアナにとって忌まわしいはずの呼び名を口にしているのか。
その痛ましい姿が、『あの時』と重なる。
まるで、何もできなかったヴァルに現実を突きつけられている心境になる。
徐々に激情が大きく膨れ上がり、気がつけばディアナに向かって叫んでいた。
「――お前が、化け物のはずがないだろう!!」