ヴァンジェ ―異端の花嫁と獣の王者―

□Chapter12. 『鏡の世界』
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湯浴みをして寒さから逃れたのに、バルコニーで座り込んでいるうちに、すっかり身も心も冷え切ったから、ベッドの上で丸めた身体は未だ震え続けている。

シーツをきつく握り、我が身を守るように背を丸めても、途方もない孤独感は消えてくれなかった。

拒絶したのは他ならぬディアナ自身だというのに、ここ数日隣で眠る熱が恋しくなってしまう。

ちらりと後ろを振り返っても、当然のごとくヴァルの姿はない。

散々近づかないでと訴えておきながら、今さら会いたいと願うなんて、あまりにも自分勝手だ。

顔の向きを戻し、一つ溜息を零す。

(今はきっと、ヴァルも寝ているはず……)

ならば、彼の元を訪れては余計に迷惑をかけてしまうだろう。

眠れなくても、このまま身体を横たえて少しは休まないと駄目だと己に言い聞かせ、目を閉じたその時。

静寂を破るように、突如扉を叩く音が響き渡った。

その音に目を見開き、息を詰める。

まさかという期待と、どうしてという疑問が、胸の内で交差する。

早く返事をしなければと思うのに、喉が引きつって声が出ない。

しばし沈黙が流れた後、もう一度扉を叩く音が耳朶を打つ。

「……ディアナ、起きているか?」

待ち焦がれていた声に、気がつけばベッドから飛び降りていた。

急いで扉に駆け寄り、力任せに開け放つ。

驚きに目を見張っているヴァルには構わず、勢いのままに彼にしがみつく。

「……ディ、アナ……?」

想定外だったに違いないディアナの行動に動揺しつつも、ヴァルはそっと抱きしめ返してくれた。

そのことがどうしようもなく嬉しくて、ヴァルのシャツを握る手の力が強まる。

しばらくそうして抱擁を交わしていたが、夜の冷気に剥き出しの肩がぶるりと震える。

すると、ヴァルはディアナを抱き上げて部屋の中へと踏み入り、ベッドの上に静かに下ろしてくれた。

そして、跳び起きた際にベッドから落ちてしまっていた掛け布団を、ディアナの肩を包むようにかけてくれた。

「……あり、がとう……」

ようやく絞り出せた声は、弱々しく今にも消え入りそうで、ますます情けなくなる。

ヴァルはディアナの隣に腰かけ、不意に強い力で肩をぐっと引き寄せてきた。

「ヴァル……?」

どうしたのかと首を傾げて答えを促せば、ヴァルはこちらから目を逸らしたまま、呟くように言葉を落とした。

「……悪かった」

「……何が?」

唐突に告げられた謝罪の言葉は、突然こうして深夜にディアナの部屋へ押しかけてきたことに対してか、それとも全く別の何かに向けてか。

じっと横顔を見据えて続きを待っていると、ヴァルの揺れる眼差しがこちらへと注がれた。

「……昼間、俺はお前を傷つけただろう?」

まっすぐに核心を突かれ、胸の奥がずくりと痛む。

思わず顔を歪めてしまったディアナに、ヴァルも苦しそうに眉根を寄せる。

「……情けない話だが、お前を傷つけたと分かっているのに、何が原因で傷つけてしまったのかまでは、分からないんだ」

ヴァルの唇が、自嘲の笑みで歪む。

「最初は、あんなことを頼んだ所為かと思った。だが、頼んだ時も訓練中も、お前からそんな様子は見受けられなかったから、すぐに違うと気づいたんだが……。だとしたら、何がお前の心を抉ったのか、全く見当がつかない。だから、お前の従者に心当たりがないかと訊きにいったんだが、あいつにこう言われた。『相手の全てを理解しているつもりになっているとしたら、それはただの自己満足、傲慢だ』と」

ヴァルの言葉に、衝撃で目を瞬く。

言われた内容そのものよりも、ヴァルが犬猿の仲のはずであるヒースの元に足を運んだという事実が、驚きだ。

ヒースもヒースで、ヴァルに助言をするなんて、熱でもあるのではないかと疑ってしまう。

絶句しているディアナの反応を違う意味で捉えたらしく、ヴァルは笑みをより苦いものへと変えた。

「……お前のことを守りたいと言っておきながら、傷つけるなんて……本末転倒だな」

「違う……っ! ヴァルの所為じゃないの。ヴァルは……何も悪くないの」

慌ててヴァルの言葉を否定し、彼の肩に頬を寄せる。

頭の中で急いで伝えなければならないことを整理し、たどたどしくも説明を始める。

「……今日あんな態度を取っちゃったのは、ヴァルの隣にいる自分が、惨めに思えてきちゃって……」

「……惨め?」

誤解を招く発言をしていないかと不安に駆られながらも、閉じてしまいそうになる唇を何とかこじ開ける。

「だって……私は汚いことに手を染めていたから、考え方まで卑怯で卑屈で……全然ヴァルと釣り合っていない」

またもや言葉の選び方を失敗してしまった気がするが、もういちいち気に留めていても仕方がない。

半ば自棄になり、心の奥底に溜まっていたものを吐き出す。

「ヴァルは、私が肩身の狭い思いをしなくてもいいようにって、ちゃんと妻にしてくれて、す、好きとまで言ってくれたのに……私、すっごく嫌な女なの。いつまでも過去のことばかり引きずって、こんな風にうじうじ悩んで……どこにも好きになってもらえる要素がないの。ヴァルみたいに優しくもないし、臆病でずるいの……」

声が尻すぼみになり、唇を引き結んで俯く。

本当に、改めて言葉にすればするほど、一体ヴァルはこんな自分のどこに好感を持ったのかと、心底不思議でたまらない。

彼が何の反応も示さないものだから、余計に項垂れてしまう。

無言の間が苦痛になってきた頃、ふと頭上から声が降ってきた。

「……話してくれて、ありがとうな」

頭に手が置かれたかと思ったら、そのままゆっくりと撫でられる。

おずおずと見上げれば、優しく細められた深紅の瞳と視線が絡む。

「……俺は、お前のそういうところが好きだ」

「え?」

「潔く、自分の弱いところを認めているだろう。そんなの、誰にでもできることじゃない。誤魔化したり、見て見ぬふりをしたり、いくらでも自覚しなくて済む方法はあるのに、お前はそうしないだろう」

「……だって、そんなことをするのは、ずるい」

「そう考えている時点で、お前は卑怯でも何でもないだろう。それに、俺にも忘れられないことの一つや二つはある。誰にだって、きっとある。だから、忘れられないことがあるからって、それは悪いことじゃない。ただ、お前が他の奴より不器用なだけだ」

ヴァルの言葉が、鼓膜を通して心にじんわりと沁み渡っていく。

彼を黙って見つめていたが、やがて口を開く。

「不器用って、ヴァルにだけは言われたくない」

可愛げの欠片もない発言に、ヴァルがくしゃくしゃと髪を撫で回してきた。

目の前が自分の髪で覆われ、彼がどんな表情をしているのか判別ができなくなる。

「ヴァル、やめて」

抗議の声を上げれば、手の動きが止まると同時に、またヴァルの言葉が鼓膜に染み込んでくる。

「……話しにくいことを聞かせてくれて、ありがとうな。これからは、嫌なことははっきりと嫌って言ってくれ。俺は気が利かないからな。包み隠さず言ってくれた方が、助かる」

「……いいの?」

「むしろ、そうしてくれ」

ヴァルの優しさが嬉しくて、緩みそうになる口元を慌てて彼の腕で隠す。

そして、双眸を伏せつつもごもごと口を動かす。

「……ヴァル、その……今夜も一緒に寝てくれる?」

気を持たせかねない言動を取るのは残酷だと理解しているが、今夜ばかりは一人では心細い。

「化け物って……昔、言われたことがあるって言ったでしょう? そのことを思い出しちゃって、だから、その……」

一人で眠るのが怖いなど、あまりにも子供じみている。

そう自覚はあるものの、離れて欲しくなくてついしがみついてしまう。

一度止まっていた手が、先程よりもやんわりと髪を撫でていく。

「――言われずとも、傍にいる」

その心強い響きに、今夜は悪夢に苦しめられる心配をする必要はないと断言された気がして、心地よい安堵感に包まれた。
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