ヴァンジェ ―異端の花嫁と獣の王者―

□Chapter11. 『殺す覚悟と生きる覚悟』
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「ふう……」

ディアナは広々とした大浴場で湯に浸かりながら、細く息を吐き出した。

今日はとことん身も心も休めようと考えていたのに、温室の探索をしていたら、思わぬ事態が起きてしまった。

ヴァルの身に降りかかった異変。

ひっそりと残されていた、謎の地下室。

不気味な扉。

聞き覚えのない、不思議な声。

途中で途絶えてしまった意識。

あれら全てが一体何だったのか、未だに答えが見出せない。

それに聞くところによれば、彼自身は自分の異変を認識していなかったし、謎の声も聞かなかったのだという。

また一段と謎が深まったように思え、気が滅入ってしまう。

(結局、ヴァルに心配かけちゃったし……。夕方は気絶したまま、夢も見ないくらい熟睡しちゃったし……。せっかくの休日が台無し……)

ふと、そこでまた思考が後ろ向きになっていることに気がつき、慌てて意識を切り替える。

(でも、ヴァルの新しい一面も発見できたし、楽しいこともいっぱいあったんだから、めげない、めげない)

呪文のごとく唱え、うんうんと一人頷く。

そうだ、何も全てが上手くいかなかったわけではない。

できなかったことで落ち込んでいる暇があったら、できたことを数え上げ、また明日から頑張る糧とすればいいのだ。

(湯浴みが終わったら、ヴァルに都合のいい時間を訊いてみよう。そして、ピアノの弾き方を教えてもらうんだ)

いきなり最初から一人で練習するのは、あまりにも無謀だ。

だから、ディアナが言い出した通り、ヴァルから手ほどきを受けよう。

意識して気持ちを前に向かせ、肩を大きく上下して余計な力を抜く。

そして、指の腹を使ってゆっくりと頭皮を揉みほぐす。

そうしていると、徐々に凝りがほぐれていき、心なしか気分も向上していく。

湯の中で腕と足を思い切り伸ばし、ほうっと息を吐く。

(このまま、お湯の中で寝ちゃえそう……)

そんなことをしたら、間違いなく溺れるだろうが、気を抜くとそのまま瞼が落ちてきてしまいそうだ。

のぼせる前にさっさと上がってしまうかと立ち上がり、湯の中から抜け出す。

身体を洗うのに使用したタオルを手に持ち、クリーム色のタイルが敷き詰められた、湯で濡れた床の上で滑らないように気をつけつつ歩き、脱衣所へと続く曇りガラスが嵌められた扉を押し開けた。

すると、何故か肌色が視界に映った。

目にしたものが何なのかすぐには理解できず、そのまま茫然と立ち尽くす。

相手も完全に動きを止め、奇妙な沈黙が流れる。

そろそろと目を上げ、視線の先にいる人物をのろのろと認めていく。

向こうはちょうどシャツを脱ぎ終わったところで、まだ下は穿(は)いたままだ。

それなのに、どうしてここまで無駄に扇情的に見えるのか。

おそるおそる相手の顔に視線を固定すると、こちらへ顔を向けたまま凍りついている、ヴァルと目が合う。

それから、緩慢とした動作で自分へと視線を戻す。

毛先から垂れた雫や、素肌を伝い落ちていく水滴が、ぽたぽたとライムグリーンの小さなバスマットに吸い込まれていく。

そこまで状況を認識するなり、静かに浴場へと引き返してばたんと扉を閉めた。

ずるずるとタイルの上にへたり込み、瞬きもせずに床を凝視した。

見られた。

見られてしまった。

その二つの文章で頭の中は埋め尽くされ、次第に羞恥心が込み上げてきて、じわじわと頬が熱くなっていく。

いくら常にほぼ表情が動かないディアナでも、さすがに今は顔が真っ赤に染まっているに違いない。

(……私、裸だったのに――!!)

化け物と罵られてこようとも、暗殺者としての普通ではない青春時代を送ってきたとしても、それでも一応は年頃の女だ。

異性に全裸を目撃されて衝撃を受ける程度には、女心というものが残されている。

いっそ木っ端微塵になくなっていたら、どんなに気が楽だったか。

ヴァルの方は、まだいい。

たとえ上半身裸の状態で見られても、彼は男だ。

ディアナは突然のことに驚いたし、向こうも瞠目していたが、まだ互いに平常心を取り戻せるくらいの心の余裕はある。

だが、ディアナは女だ。

しかも、一糸纏わぬ姿だったのだから、余計に性質が悪い。

今まで一切肌の手入れを行ってこなかったこの身体は、さぞかし見苦しく映っただろう。

想像しただけで、心が抉られる。

いや、何も思われなかったとしても、既に胸がずたずたに斬りつけられてしまった心境だ。

ぎこちなく膝を抱え、膝の間に顔を埋(うず)める。

(……もうとっくに、女を捨てていたつもりだったのに)

こうして傷ついているということは、結局捨て切れていなかったのだろう。

自分にもまともな感覚が残っていたのかと思うと、安堵するやら、かえって虚しくなるやら、複雑な気持ちだ。

濡れたまま蹲(うずくま)っていたら、不意にぶるりと震えが走った。

(……早く、拭かなくちゃ)

とはいえ、バスタオルは脱衣所に入ってすぐ左の棚に置いてある。

つまり、ヴァルともう一度対面しなければならなくなる。

しかし、こうしてまごついていても、どうしようもない。

意を決して立ち上がり、そろそろと扉を細く開ける。

(……あれ?)

そこに、もうヴァルの姿はなかった。

脱いだものも洗面道具もないから、完全にここから立ち去ったのだろう。

強張っていた肩が下がり、おずおずと脱衣所に身を滑らせる。

即座にバスタオルを鷲掴み、それで身体を隠して辺りを見渡すも、やはり彼の姿は見受けられない。

ほっと息を吐き出すのと同時に、ヴァルに対する申し訳なさが湧き上がってきた。

(……ヴァルだって見たくて見たわけじゃないのに、私ばかりあんなにうろたえるなんて……)

きっと、不快な気持ちにさせてしまったに違いない。

そこまで配慮が行き届かなかった自分は、やはりまだまだ未熟だ。

着替えたら、彼に詫びにいこう。

そう心に決めると、素早く身支度へと取りかかった。
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