ヴァンジェ ―異端の花嫁と獣の王者―
□Chapter10. 『禁忌の扉』
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ディアナの私室へと資料を持ち込み、ヒースと二人でベッドに腰を下ろし、分担して黙々と目を通していく。
そうしている間に大分陽が傾いてきたらしく、部屋の中が茜色に染め上げられていく。
その最中、思わずぽつりと言葉を零してしまった。
「あのね、ヒース。さっきの司書さんの言葉なんだけど……似たようなことを、ヴァルもヴァルの家族も言っていたの」
頬の辺りに、ヒースの視線が突き刺さる。
無言で先を促された気がして、一度噤んだ口をまた開く。
「何だか、国民全体が洗脳されているみたいで……少し、怖い」
本音を漏らすと、ヒースの目がこちらから逸らされる気配がした。
呆れられてしまっただろうかと、内心苦笑いを浮かべていると、不意に彼が口火を切った。
「……ですが、何も悪いことだけではありませんよ」
「え……?」
ヒースの言葉に顔を上げて横を向けば、彼は相変わらず資料に視線を落としたまま、淡々と続ける。
「彼らの言葉が本心であれば、まず俺たちの敵になることはありえないでしょう。同胞なのですから。それに、同じ価値観を共有しているからこそ、有事の際に固い結束力が生み出されるでしょう。……つまり敵であれば厄介ですが、味方であれば、この上なく心強い」
「……つまり、ヴァルたちは私たちの最強の味方……?」
「そうなるでしょうね。突き詰めれば、ノヴェロ王を筆頭に、獣人がこちらに害することは決してないと判明したわけですから、ディアナ暗殺を目論んでいる黒幕はこの国にはいないと、断言しても差し支えはないでしょう」
「じゃあ、ここにいる人たちのことは疑わなくても……」
「その必要は、これっぽちもありません」
ヒースのきっぱりとした声音に、ほんの少しだけ心が晴れた気がする。
疑惑の目を向け続けるというのは、想像以上に精神的な苦痛をもたらすものだ。
この国にいる以上は、その苦しみを味わわなくて済むと考えたら、身体から余計な力が抜けていった。
「よかった……」
「まあ、そうなると、今度はあの人間共の侵入経路について疑問が残りますが」
「そのことなんだけど……誰も手引きしたわけじゃないって可能性もあると思う」
ヒースがこちらへと顔を向け、怪訝そうに首を傾げる。
ディアナは手にしていた資料を掲げ、ある文章を指で差す。
「これ、先代のサクリフィスの記録帳なんだけど、他の年代のサクリフィスに比べて害獣の出没回数も多いし、特別にバスカヴィルの神殿の巫女が結界の補強にも来ている。ということは、先代の時点で結界はかなり弱まっていたってこと」
「ですが、ディアナはこちらに嫁がれてから補強しにいきましたよね? その理屈は通らないのでは?」
「前のサクリフィスも、別に結界を張るのを怠(おこた)ってたはずがないでしょう? なら、私一人の力では充分じゃなかったって言われても、納得できる」
「それは、そうでしょうが……」
「一回、ギディオン様にも相談した方がいいかも。私よりも、よっぽど結界の知識があるだろうから」
手にしていた資料を閉じ、山積みになっている他の資料の上へと置く。
詳細までは無理だったが、大まかな部分を重点的に読み進めていたら、どうにか全ての資料に目を通すことができた。
そこから得られた結論は、サクリフィス一人だけではどうしようもないほど、結界が弱まっているのではないかというものだ。
それからもう一つ、不可解な点があった。
「ねえ、ヒース。たとえば、建物が古くなっていくのって、長い時間をかけてゆっくりとなるよね?」
「基本的には、そうですね。地震などといった自然災害が発生すれば、老朽化とは関係なく傷(いた)んだり、壊れたりするでしょうけど」
「……だったら、結界にも同じようなことが起きたって、考えられない?」
挑むように見つめれば、ヒースは不思議そうに目を瞬く。
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味。他の代では特に何かあったわけじゃないのに、先代の時になって突然弱まった感じがする。資料には残ってないけど、もしかしたら誰も気づけなかっただけで、そういう事故があったのかも」
「ですが、サクリフィスまで気づかないのは、おかしいのではありませんか?」
「そうでもない。代を経るごとに、サクリフィスの力が確実に弱まってきているって、ギディオン様が言っていたもの。だから、完全に考えられない話ってわけじゃないと思うの」
腕を組んで己の推論を伝えれば、ヒースは顎に手を添えて目を伏せ、ディアナの言い分に思考を巡らせているみたいだ。
沈黙を貫き、ヒースの秀麗な顔立ちを眺めていると、やがて彼は意を決した面持ちで視線をディアナに合わせた。
「……確かに、現時点で切り捨てる可能性ではないかもしれませんね。調査してみるだけの価値はあると思います」
自分の意見を受け入れられたことに胸を撫で下ろすと、ヒースはすかさず言葉を継いだ。
「しかし、しばらくは様子見をしてみるのはいかがでしょう? ここで、ディアナの身が危険に晒される可能性は極めて低いのですから、心身共に休めて、いざという時のために備えるべきではないかと」
「それもそうだね……」
まだ何も起きていない段階だからこそ、事前に対策を練るのも大事だが、そこで力を使い果たしてしまったら、本末転倒だ。
休息を取るのもまた、ディアナの大事な仕事の一つだろう。
そこまで考え、ふとある事件が脳裏を過る。
「そういえば、ヒース……バスカヴィルの様子を見てきてくれたってことは、姫の捜索状況も知っている?」
淡い期待を胸に抱いて問いかけた途端、ヒースは僅かに表情を曇らせた。
「……王立騎士団の営所に立ち寄って、キャレブ団長本人から伺ったのですが、依然、行方が分からないままだと……」
「そう……」
アリシア捜索は、王立騎士団の管轄であり、ディアナが首を突っ込むべきではない。
そう己に言い聞かせる反面、そろそろ手を貸すべき局面に差しかかっているのではないかとも思う。
アリシアが行方知れずとなってから、もう一ヶ月は経過しているのだ。
このまま時が過ぎれば過ぎるほど、彼女の生存率が低くなってしまう。
「……身代金の要求だとか、脅迫はされてないの?」
「そういった類いのものは、一切ないと」
「……そうなってくると、姫自ら失踪したっていう線が濃厚になってくるんだけど、そう推測を立てたら立てたで、騎士たちが殺された理由と原因が分からなくなってくる……」
最早これは、永遠に迷宮入りしてしまう事件なのではないかと、つい勘繰ってしまう。
(……ううん。そんな不吉なこと考えちゃ、駄目)
悪い方向に傾いていた思考を振り払うように、ぶんぶんと頭(かぶり)を振る。
そんなディアナの心中を見透かしたかのように、ヒースはそっと溜息を吐いた。
「……ディアナ。貴女は確かに聡明で戦闘能力も高いですが、万能ではありません。全てをどうにかするなど、到底不可能です。自分が何を優先するべきなのか、今一度考えてください。――今の貴女にとって、最優先事項はなんですか」
冷静な問いかけに、きゅっと唇を噛む。
ヒースは、暗にこう言っているのだ。
――己を過信し、傲慢になるなと。
その過ちは、つい先日の事件で犯したばかりだ。
同じ愚を、早くも繰り返してはならない。
改めて己の立場を再確認し、掠れそうになる声を絞り出す。
「私の役目は……結界でバスカヴィルとノヴェロを守ること」
そう答えるなり、彼は深く頷く。
「そうです。そのことを、どうかお忘れなきように。貴女の物事に懸命に取り組めるところは美点ですが、多くを望めば何一つとして手に入りません」
ヒースの言葉が、ずしりと心に圧(の)し掛かる。
知らず知らずのうちに強欲になっていた自分が、不甲斐なくなる。
ディアナにできることなど限られているのに、その限界を超えてまで謎の解明に挑もうとしていたなんて、無謀にも程がある。
項垂れそうになっていたディアナの耳に、唐突にヒースの独り言めいた声が滑り込んできた。
「……明日、結界の補強に向かいましょう。そうしたら、少しは不安が薄れますよね? ディアナの義務でもあるわけですし」
ぱっとヒースの方に振り向けば、彼は穏やかに微笑んでいた。
「ですが、それ以上のことはしてはいけませんよ。犯人捜しは様子見。アリシア王女殿下の捜索は、王立騎士団に一任する。ギディオン様の元には、後日伺う。……それで、よろしいですね?」
ディアナの頭を優しく撫でるヒースをじっと見つめ、彼には敵わないと唇を尖らせる。
厳しい現実を突きつけてきたかと思えば、こうして甘やかしてくれるのだ。
そんなヒースに、もう頷くことしかできない。
「……うん」
この飴と鞭の使い分けが上手な従者は、いつまでディアナの傍にいてくれるのかと、急に不安と期待が入り混じった気持ちが込み上げてきた。