ヴァンジェ ―異端の花嫁と獣の王者―

□Chapter8. 『過去と未来』
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その日の夜明けは、濃い霧が立ち込めていた。

複数の部下たちの指揮を任された男は、これは作戦を中止にした方がいいかもしれないと、密かに眉根を寄せた。

自分たちが普段暮らしている、バスカヴィル国での暗殺ならば、この濃霧はむしろ好都合だ。

相手の視界から自分たちの姿を隠せるし、いくらだって奇襲できる。

だが、ここはノヴェロ国で、相手は獣人だ。

視界が悪ければ悪いほど、嗅覚や聴覚、他の感覚器官も人間より遥かに優れている獣人の方が、有利になる。

引き返すとしたら、今しかない。

しかし同時に、今さら後戻りはできないとも、理性が訴えかけてくる。

既に前金を受け取っているからではなく、依頼主が指定した期日が今日までなのだ。

人間相手の暗殺とはわけが違い、準備を整えるまでに随分と時間がかかってしまった。

そう考えると、こちらにも非があるわけなのだが、そもそも獣の王者を殺害してこいという依頼自体が、無謀なのだ。

とはいえ、報酬の金額に目が眩んで引き受けてしまったのも、また事実だ。

こうなったら腹を括り、無理矢理にでも計画を実行するしかないだろう。

もしかしなくとも、自分たちが捨て駒に過ぎないだろうことは、重々承知している。

それでも、成功させれば普段の仕事とは比べ物にならないほどの、旨(うま)い汁が啜(すす)れるのだ。

伴う危険も大きいが、賭けに勝利した場合に手に入るものも、また大きい。

一つ大きく頷き、部下たちの方へと振り返る。

「おい、そろそろ移動を始めるぞ」

件の温室へと向かおうとした矢先、微かな物音が聞こえた気がした。

小さな異変でも、こうした状況では命取りになる。

視界が利かない状況で視覚に頼っても仕方がないので、必死に耳を澄ませるが、先程耳が拾ったはずの音はもう聞こえてこない。

気のせいだったのかと首を傾げ、前方に向き直って歩き始める。

その時、大気が大きく揺らめいた。

「あああああああああああああああああ!?」

背後から絶叫が轟(とどろ)き、素早く振り向いた先には、三人の男が力なく地に伏していた。

すぐさま彼らの元に駆け寄り、脈と呼吸を確かめようとした寸前、今度は逆の方向から悲鳴が上がった。

「ぎゃあああああああああああああああ!?」

「う……腕があ!! 腕があ!!」

生死の確認をする暇もなく、次々と叫び声が建物の壁に反響する。

この辺りは人気が少ないとはいえ、このまま騒ぎを起こし続けていては、誰かに気取られてしまうかもしれない。

ここは、獣の国なのだから。

もう、被害に遭った者の状態を調べている場合ではない。

即座にガンホルダーから拳銃を取り出し、次第に冷静さを失い始めている部下たちに檄(げき)を飛ばす。

「うろたえるな!! これ以上、相手の好きにさせないためにも、即刻固まれ!! そして、敵の正体を見極めろ!!」

そう指示を与えるや否や、すぐに男の言葉を受けた部下たちが互いに互いの背を預け、周囲の様子を窺う。

すると、辺りは霧ばかりが漂うだけで、不気味なほどの静寂が訪れた。

敵の気配を探ろうにも、男たちを撹乱したはずの人物の影は、どこにも見当たらない。

自分たち以外の匂いも、足音も、息遣いも、何もない。

まるで実体のない化け物にでも襲われた心地になり、背筋を悪寒が撫で上げていく。

今までも、暗殺の依頼は散々受けてきた。

自分たちは、決して綺麗な人間ではない。

そうした汚い仕事も請け負わなければ、日々の生活すらままならない。

でも、ここまで相手に正体を気取らせない敵と対峙するのは、生まれて初めてだ。

あらゆる感覚を研ぎ澄ませれば、大抵はどこかしらに綻びが見つかるはずなのに、相手には微塵も隙がない。

それだけ、こういった仕事に慣れている証拠なのだろう。

ふと、頭上から何かが降り立つ音が耳朶を打つ。

あまりにも軽やかな音だったものだから、てっきり猫でも建物の屋根から飛び降りたのかと思った。

だが、視線の先に佇んでいるのは黒い外套に身を包んだ小柄な人物だった。

外套にすっぽりと全身が覆われているため、少年なのか女なのか、性別の判別すらつかない。

その人物は、静かにこちらに向かって一歩踏み出した。

急いで拳銃を構えた時にはもう、黒い影は視界から掻き消えていた。

頬を風が撫でていったかと思いきや、すぐ後ろで打撃音が聞こえてきた。

再び絶叫が迸(ほとばし)り、素早くそちらへと身を翻す。

しかし、霧が邪魔をして発砲できない。

下手をすれば、仲間を撃ってしまう恐れがある。

それなのに、敵は巧みにこちら側の人数を削っていく。

逃げ出そうとする者がいれば、どうやって狙撃しているのか知らないが、発砲音が打ち鳴らされる。

そして、その直後に人が倒れ伏す音が鼓膜を震わせるのだ。

「お、おい! ここは一旦、撤退した方が――」

そう言いかけた男の背後に、例の黒い影が忍び寄る。

「……そこだ!!」

間髪入れず引き金を引いたのだが、影は目にも留まらぬ速さで躱(かわ)した。

もしかしてと、嫌な予感が脳裏を過る。

この身体能力の高さは、尋常ではない。

相手は人間ではなく、やはり獣人ではないのか。

そんな考えが脳裏を掠めていた間に、いつの間にか敵が一気に間合いを詰めてきていた。

命の危機を感じ、照準を定める余裕もなく闇雲に弾丸を撃ち放つ。

そんな男の滅茶苦茶な攻撃を嘲笑うように、敵は軽やかな身のこなしで難なく避けていく。

その時、不意に目深に被っていたフードが僅かに上にずれた。

一陣の強い風が吹き、外套の裾もふわりとはためく。

「……え……?」

ばさりと揺れる外套の隙間から覗く、布越しからでも分かる豊満な胸と、肉感的な腿。

名のある職人が作り上げた精緻な人形のごとく、美しい顔の造形。

そして何より、雪のような白銀の髪と、エメラルドを思わせる緑の瞳が、激しく心を奪う。

「……女……?」

呆けた思考のまま、唇から声が漏れ出る。

美しく妖艶な少女は、冷めた目つきでこちらを見遣り、何の躊躇もなく鳩尾(みぞおち)に拳を沈めた。

少女のものとは思えぬ圧倒的な力に、呻き声一つ上げられないまま目の前が暗くなっていく。

――銀の死神。

意識を手放す間際、そんな言葉が脳裏に焼きついた。
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