ヴァンジェ ―異端の花嫁と獣の王者―
□Chapter7. 『忍び寄る影』
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ヴァルの元に嫁いでから、もうすぐ三週間近くが経つ。
城の生活にもすっかり慣れ、今では我が家のようにすら感じられていた。
午前中はベニタに刺繍を教えてもらい、昼食を済ませてからは趣味に興じるという、かなりのんびりとした時間の過ごし方をしている。
ベニタに王女とはどんな過ごし方をしているのかと訊ねたところ、一人でいる時は刺繍や読書をしていることが多いと聞かされた。
読書は前々からしているが、刺繍どころか針を持ったことすらないと白状したところ、彼女自ら教鞭を振るってくれるようになったのだ。
基本的な縫い方は一通り覚えたので、今は地道に刺繍の練習をしているところだ。
ベニタに筋がいいと褒められたし、こうした同じ作業の繰り返しは意外と好きだから、根気良く続けられている。
また、そのうち淑女としての礼儀作法の確認をするとも言われた。
趣味の時間は、読書をしたり画廊に飾られている絵画を鑑賞したり、娯楽室にある蓄音機で音楽鑑賞をしたり、チェスや菓子作り、薔薇園の散策にと、その時によって過ごし方は様々だ。
そして、暇を見つけてはヴァルが共に過ごす時間を作ってくれる。
一緒にお茶を楽しんだり、散策をしたり、娯楽室でボードゲームに興じたりと、こちらもその時々によって過ごし方が異なる。
正直に言えば、今までの自分からは考えられないような生活を送っている。
時折、これは夢なのではないかと疑ってしまうくらいだ。
今日も今日とて、ヴァルと共にお茶をしている。
今日は天気がいいからと、薔薇園にテーブルセットやパラソル、ティーセットを運んでもらい、薔薇を眺めながら甘い菓子を堪能している。
彼は紅茶や菓子が特別好きだというわけではないから、今回はコーヒーを口に含んでいるだけだ。
間食自体が元々あまり好きではないらしく、サンドウィッチやキッシュを口に運ぶことも稀だ。
それでも、こうしてお茶会を開いてくれるのは、ひとえにディアナが宝石のごとく美しい意匠の菓子に目を輝かせるからだろう。
何だかんだで、ヴァルはディアナを喜ばせる努力を惜しまない。
だがディアナ自身は、大好きな菓子を食べることよりも、ヴァルの優しさそのものが嬉しい。
ヴァルにも既にそう伝えてはあるのだが、相変わらずこうしてお茶会を開いてくれている。
レモンティーで喉を潤してほっと息を吐いた時、不意に彼が一枚の封筒を差し出してきた。
「……ヴァル、これは?」
一度ティーカップをソーサーに置き、首を傾げて問えば、ヴァルは淡々と告げた。
「……エルバートからの手紙だ。親書はバスカヴィルに滞在している間に受け取ったんだが、今日、お前宛に届いたんだ」
「私宛に? ……どうしたんだろう」
もしかして、バスカヴィル国で何かあったのか。
それで、共同戦線を張ろうと持ちかけたディアナに、何か報告しようとしたのだろうか。
とりあえず考えていても仕方がないので、その場で封を切って中の便箋を取り出す。
ざっと文面に目を走らせた直後、気が抜けて肩を落とす。
「どうかしたのか?」
「……何かあったのかなって心配していたのに、暇を持て余してどうしようもないから、文通相手になって欲しいって手紙だったの」
こんな手紙を送ってくるくらいなのだから、エルバートの身に危険が迫っていないのは明らかだ。
その点は喜ばしいのだが、いくら当面の危機が去ったとはいえ、どうしてわざわざディアナなんかを文通相手に選んだのか。
(……まあ、軟禁状態だから、少しでも外部からの刺激が欲しいんだろうけど……)
それなら何故、相手にヴァルを選ばなかったのかと一瞬疑問が過ったが、即座に彼相手では堅苦しい文面になることが目に見えているからかもしれないと、納得する。
(ヴァル、真面目だから……単なる文通でもいつの間にか外交になっちゃいそうだもんね……)
そう考えると、エルバートはなかなかに相手の人柄を見抜く力に長けているのかもしれない。
心の中で尊敬の念を送っていると、ヴァルが不機嫌そうに眉根をきつく寄せた。
「……何故、お前にそんなことを頼む?」
「殿下がこうして誰にも怪しまれずに手紙を送れる相手は、表面上は殿下に脅しをかけている私とヴァルくらいだからでしょう? しかも、ヴァルっていかにも真面目なことしか手紙に書かなさそうだし……そうなると、必然的に私に頼むしかないじゃない」
咄嗟の反論が出なかったのか、彼は返事に窮したように黙り込む。
「でも、退屈だってことはそれだけ安全な状況ってことだから、よかった」
そう言って胸を撫で下ろすディアナとは対照的に、ヴァルは未だ納得していない様子だ。
上目遣いをしてヴァルを見つめ、首を捻る。
「……そんなに心配なら、殿下との手紙、ヴァルに見せてもいいよ?」
そう提案した途端、彼がぎょっと目を剥く。
「ヴァルが嫌な思いをしたまま、殿下と文通するのも気が引けるし……別にお互いにおかしなことを書いているわけじゃないって分かれば、ヴァルだって安心でしょう?」
「いや……だが……」
ヴァルはしどろもどろに言葉を零し、しばし唸った後、そっと息を吐き出した。
「……そこまで気を遣わなくても、いい」
「でも、心配なんでしょう?」
「……お前はともかく、向こうが何を書いてくるかは多少気になるが……そんな風にお前の行動を制限するつもりはない。束縛するのは嫌だからな。お前の気に障るようなことがない限り、口を出すつもりはない。だから、文通でも何でも、好きにするといい」
半ば自分に言い聞かせているような雰囲気ではあるが、全て建前というわけでもなさそうだ。
ディアナが案じる必要があるほど、無理しているという感じではなさそうなので、お言葉に甘えて頷いておく。
「……ありがとう、ヴァル」
「別に、礼を言うようなことじゃないだろう」
「何となく、言いたくなっただけ」
「……おかしな奴だな」
ヴァルは苦笑いを浮かべると、手元のコーヒーを一気に飲み干した。
「……そういえば明日、何か予定はあるか?」
「え? ないけど……もしかして、またどこかの視察?」
「違う。明日、一度実家に顔を出そうと思っていてな。お前のことを紹介しようと思うんだが、大丈夫か?」
「……実家? 紹介……?」
深く考えるまでもない。
それはまさしく、彼の家族と対面することを意味する。
(……つまり、義理の家族との初の顔合わせ……!?)
立場上、そういうことになるだろう。
ぴしりと、思考が凍りつく。
ヴァルはまるで世間話でもするかのように切り出してきたが、ディアナからしたら、生きるか死ぬかの戦争みたいなものだ。
(そういえば、嫁いでから一度もご挨拶に伺っていない……!! 礼儀知らずの女だと思われていたら、どうしよう……!!)
ヴァルが、どこまでディアナのことを話しているのかは知らない。
しかし、ディアナが獣人であろうと、ノヴェロ国を覆う結界を張っている張本人なのだ。
決して、心証はよくないだろう。
せめて世間並みの挨拶はしようと、必死に頭を働かせる。
(えっと、確か結婚相手のご家族に挨拶をする時は、何か手土産を持っていくものだって、本で読んだ気が……何を渡せばいいんだろう……?)
平静を保とうと努力しつつ、おそるおそる口を開く。
「ヴァル、その……ヴァルのご家族って何が好き? 手土産に何か、お菓子でも用意した方がいいよね?」
「そんなに上品な家族じゃないから、不安になる必要はない。手土産も、別に用意しなくても大丈夫だ」
「大丈夫じゃない……!!」
ヴァルは里帰りをするだけなのだから、気を張る必要もないのだろうが、ディアナはそういうわけにはいかない。
ヴァルに助言を求めても、全てこの調子で切り返されそうだから、諦めて自分の頭で考える。
(……よし。あんまり好き嫌いのなさそうなマフィンを作って、持っていこう)
本来ならば既製品を買ってくる場面なのだろうが、ディアナにそんな時間の余裕は残されていない。
それだったら、まだ手作りの方が悪い結果にならないと思う。
明日の午前中にヒースに手伝ってもらって作ろうと、心に固く誓った。