ヴァンジェ ―異端の花嫁と獣の王者―
□Chapter6. 『救済の光』
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バスカヴィル国からノヴェロ国へと戻ってきてから、一週間が経つ。
ヴァルは自分の元に届けられた書類を捲(めく)りながら、一つ大きな溜息を落とす。
「……おいおい、景気の悪い顔すんなよ。こっちまで暗くなるだろー?」
「……お前は王の執務室に入り浸り過ぎだ、サイラス」
声の主であるサイラスを半眼で見遣れば、彼は悪びた様子もなく肩を竦める。
「お前も姫さんも、なーんか帰ってきてから妙に様子がおかしいから、顔を見にきただけだ。姫さんなんか、本に噛り付いたまま俺の話ちっとも聞いてくれないんだぜ? あの反応の薄さには、さすがの俺でも傷つくってもんだ」
ディアナの異変を指摘され、思わず言葉に詰まる。
祭り見学から帰ってきてから、彼女はどこか塞ぎ込むようになってしまっている。
拙いながらも声をかけ、何があったのか知ろうとしても、頑なに心を閉ざしたままなのだ。
そんな状況のまま帰国し、現在に至ってもディアナは自分の殻の中に閉じ籠ってしまっている。
挙句、ディアナはヴァルとの会話さえ避けるようになり、一体どうすればいいのか皆目見当がつかない。
そもそも、ディアナが気落ちしている原因すら把握できていないのだ。
ヴァルとしても、理由も分からずに避けられていては手の打ちようがない。
ただ、バスカヴィル国でディアナを部屋まで運ぶ際、耳にした言葉がずっと頭から離れない。
「……なあ、サイラス」
「あ?」
「あいつは……ディアナは、幸せになることが怖いって言ってたんだ」
――私……幸せになっちゃいけないのに……幸せになる資格なんてないのに……ヴァルと一緒にいて幸せを感じちゃっているから……だから、怖いの。
ディアナの悲痛な訴えが、鼓膜にありありと蘇ってくる。
あの時の彼女は、涙を流しているわけではないのに、泣いているように見えた。
幼子のように身を震わせ、幸福に怯える姿はひどく痛々しかった。
「何があったら……あんなことを言い出すのか、俺には分からない」
舞踏会でのディアナを目の当たりにし、確かに守ってあげなければならないと思わせるほどの弱さを彼女から感じた。
だが、身を縮めて恐怖を訴えてくる姿は、その時の比ではなかった。
何が、あんなにもディアナの心を苦しめているのか。
幸せになってはいけないと、どうして思い込んでしまっているのか。
自分はまだまだ彼女のことを知らないのだと、打ちのめされた気がした。
(いや……知らないことが多くて当然か)
ディアナがヴァルの花嫁になってから、まだ日は浅いのだ。
全てを理解していると考える方が、おこがましい。
ヴァルの話を黙って聞いてくれたサイラスが、ふと苦々しい笑みを浮かべる。
「……幸せになるのが怖いたあ、哀しいこったな」
サイラスの発言に、間髪入れず頷く。
本当に哀しい考え方だと、心の底から思う。
「だがよ、ヴァル。お前さんまで姫さんに引きずられて一緒に落ち込んでたら、誰が姫さんのことを支えてやるんだ?」
いつの間にか俯きがちになっていた顔を上げれば、いつになく厳しい面持ちをしている彼と目が合う。
「一応、姫さんは自分の従者のヒースのことは、傍に置いているみたいだがよ。あいつじゃ、駄目だ。姫さんの傷に寄り添えても、それ以上のことはしてやれてねぇ。姫さんが自分から前に向ける状態なら、それでもいいけどよ。今の姫さんにはただ後ろから支えられているだけじゃなくて、前に向かって引っ張っていく奴が必要なんじゃねぇか?」
サイラスの言葉に、頬をはたかれたような衝撃を受ける。
絶句するヴァルには構わず、サイラスは書類の山から一枚の文書を取り出すと、ぞんざいに突きつけてきた。
その文書を受け取って書面に視線を落とせば、そこにはノヴェロ国南部の港町の市場状況が事細かに記されていた。
そして最後には、サイラスの筆跡で視察要請と綴られていた。
「お前さんも、王位就任してから一ヶ月過ぎる頃だろ? そろそろ、国内のあちこちの様子を視察して今後の方針を決める時期だ。それで、だ」
そこまで口にしたところで、彼がびしっと人差し指を立てた。
「姫さんはまだ、ほとんど城から出たことないだろ? 視察がてら、気分転換に姫さんとデートしてこい!!」
気迫のこもったサイラスの眼差しに、かえって気が抜けてしまいそうになる。
「……お前、公私混同していないか? 視察は仕事だ。ディアナを連れていけるわけがないだろう」
「頭が固ぇなあ。視察っつっても、ずーっと気を張ってるような仕事じゃねぇだろ。必要なことさっさと済ませて、その後姫さんとデートすれば問題ねぇじゃねぇか。落ち込む妻を慰めるのも、立派な夫の務めだぜ?」
サイラスの言葉を吟味するために、手を顎に添えて思考の海に沈む。
確かに、外に出れば少しは気が晴れるかもしれない。
最近のディアナは、どんなに天気がよくても自室や図書室に籠ってばかりで、あれでは余計に気が滅入ってしまうだろう。
(……ディアナは海を見たことがあるのだろうか)
もし、バスカヴィル国の外に出たことがないのだとすれば、おそらく見たことはないだろう。
バスカヴィル国は四方を国に囲まれており、海に面してしないのだから。
それに、この港町はノヴェロ国の王城であるディズリー城が建っている場所から、少し遠い。
気を紛らわせるには、できるだけ遠い場所に出かけた方がいい気がする。
しばし逡巡し、やがて伏せていた視線を上げる。
「……そうだな。さっそく、明日にでも視察に出かけようと思う」
「おう、姫さんをぱーっと楽しませてやりな」
自分にそんなことができるのだろうかと一瞬考えたが、とりあえず頷いておく。
(……この港町について、少し調べておくか)
視察を滞りなく進めるためだと心の中で言い訳をしつつ、あとで図書室に向かおうと決めた。