ヴァンジェ ―異端の花嫁と獣の王者―
□Chapter3. 『獣の国』
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空が、青々と澄み渡った朝。
身支度と朝食を済ませ、ディアナは本日二度目の黙祷(もくとう)を捧げていた。
机の上に置いてある、神殿の水晶球を模した小さな置物に向かって、跪いて頭を垂れる。
しばらく目を閉ざしていたが、やげてゆるゆると瞼を持ち上げ、顔を上げて立ち上がった。
水晶の置物の隣には、昨日ヴァルから贈られた深紅の薔薇が一輪挿しに生けてある。
ガラスでできている一輪挿しに触れ、そっと微笑む。
あの後、ヴァルは庭師にもっと多くの薔薇を用意させようとしたのだが、そんなにたくさんはいらないと、この一輪だけで充分だと断ったのだ。
ノヴェロ国の王城である、このディズリー城は緑が生い茂る岩山の上に建てられているとはいえ、あの薔薇園は人工的なものだ。
だが、少しでも自然に近い形で咲いていて欲しかったから、ヴァルが髪に挿してくれた花以上のものは望まなかった。
この花は、一応生けてはあるが、そう長くは保(も)たないだろう。
きっと、薔薇園で生き生きと咲いていた頃よりも、ずっと早く枯れてしまう。
しかし、だからだろうか。
限られた時間の中でしか咲いていられないからこそ、一際美しく見えた。
人が花を愛でるのは、その姿が自分と重なるからなのかもしれない。
命ある者は、有限の時の中でしか生きられない。
艶やかな薔薇を眺めているうちに、どこか物悲しく感傷的になってしまった。
薔薇から目を逸らし、出かける支度を始める。
今日はヴァルと約束していた通り、結界の補強を行う日だ。
とはいっても、彼曰く結界が施されているのはバスカヴィル国とノヴェロ国の国境線沿いと、害獣の棲み処の二ヶ所だけらしい。
そのため、それほど時間はかからないと思うが、何か異変がないか注意深く観察しなければならない。
もう二度と、同じ過ちを繰り返させてはならないのだ。
二回も祈りを捧げたからか、目を覚ましたばかりの時よりは、遥かに気持ちが落ち着いた。
これならば、問題なく役目を果たせるだろう。
(……よし、準備完了)
城の外に出るのは、ヴァルの元に嫁いでから初めてだ。
とはいえ、彼と婚姻を結んでから二日しか経っていないのだから、そんなに早く城の外へと飛び出すのも常時であれば珍しいだろう。
でも、今は非常時だ。
無理を押してでも、自分にできる範囲で今回の事件の原因を究明したい。
部屋の中のカーテンを閉め切り、片付けが済んでいないところがないか、確認してから扉を開け放つと、既に扉のすぐ脇でヴァルが壁に背を預けて待っていた。
「ごめんなさい。もしかして、かなり待たせちゃった?」
「いや、それほど待っていない。俺が来るのが早過ぎただけだ」
「そっか……よかった」
もしかしたら、単にヴァルがディアナに気を遣い、そう言ってくれているだけなのかもしれないが、善意はありがたく受け取っておくべきだ。
ヴァルには忙しい合間を縫って付き合ってもらっているのだから、しっかりと目的を達成させなければと、改めて気を引き締める。
「それじゃあ、行くか」
「うん」
ヴァルの言葉にこくりと頷き、二人揃って歩き出す。
城から出ると、そこにはもう馬車が待ち構えており、御者が扉をしずしずと開けてくれた。
レディファーストということなのか、先にディアナが馬車の中へと乗り込み、続いてヴァルも乗った。
互いに腰を下ろしたところで扉が閉まり、御者は御者台に戻っていく。
そして、少しすると鋭い音が耳に届き、緩やかに馬車が動き出す。
微かな振動を感じながら、窓の外へと目を向ける。
ゆっくりと流れていく景色を眺めていたら、ふと視線を感じた。
窓から視線を外すと、ヴァルと目が合う。
「……どうかした?」
不思議に思って小首を傾げれば、彼はこちらを見つめたまま口を開いた。
「いや……お前は本当に大人しいなと思って。お前くらいの年頃の女は、もっとやかましい印象があったんだがな」
「……そう?」
確かに、普通の娘と比べれば、ディアナは大人しい部類に入るのかもしれない。
とりわけ口数が多いわけでもないし、表情の起伏も少ない。
個人的には結構感情的だと思っているのだが、周囲からすれば物静かだと受け取られているみたいだ。
(……昨日とかは、結構はしゃいでいたと思うんだけど。馬鹿騒ぎも、ついしちゃったし……)
それでも、まだ賑やかさとは縁遠いのだろうか。
「ヴァルは、お喋りな女の子の方が好き?」
もしかすると、この沈黙を居心地良く感じているのは、ディアナだけなのかもしれないと問いかければ、ヴァルは緩く首を横に振った。
「いや、そういうわけじゃないんだが……むしろ、騒がしい奴は苦手だ。会話を強要したりする奴は、特にな。だから、お前と一緒だと落ち着く」
「そ……っか。……私もね、ヴァルと一緒だと落ち着く」
そう言って、もう一度窓の外へと目を向ける。
ヴァルの視線が頬の辺りにひしひしと伝わってきたものの、今は何故か目を合わせられそうにない。
やがてヴァルの視線がディアナから逸れ、窓の外の景色を眺めている彼の姿が、窓枠に嵌められたガラスに映った。
それからしばらく沈黙が続き、鼓膜を刺激するのは、馬の蹄の音と馬車が道を進む度に揺れる音だけだ。
ヴァルの元に嫁いでからというもの、ずっと晴天が続いている。
そろそろ空気が乾燥してきそうだから、雨が降って欲しいと思う反面、日差しの心地よさに目を細める。
(本当……平和……)
こんなにも心穏やかに日々を過ごしてもいいのかと、ほんの少し不安が胸を掠める。
これまでのディアナの生活とは、全くもって正反対だ。
ウォーレスの下にいた頃は、息を継ぐ暇もないのではないかというほど、精神的に追い詰められていた。
だから今、こんなにものびのびと過ごしていては、いつか罰が当たるのではないかとも考えてしまう。
(……でも、もしこの幸せが続くのが、今だけなら――)
今だけは、余計なことは考えずに心安らかな日々を享受していたい。
そう願うのは、罪深いことだろうか。
窓の外に広がるのどかな景色を食い入るように見つめつつ、己を戒めようとしているのか、それとも後ろ暗い気持ちに囚われそうになっている自分を叱咤するためなのか、きつく唇を噛み締めた。