トラワレビト〜咲き初めの花 媚薬の蝶〜
□第十六章 『戸惑い揺れる青い蝶』
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たらいに張った水の中に手を突っ込み、ばしゃばしゃと音を立てて手のひらを擦りつけ合う。
先程、時間をかけて湯浴みをしてきたばかりなのだが、まだこの身には穢れがこびりついているような気がしてならないのだ。
女の嬌声が、未だ鼓膜に張り付いて離れない。
女の甘ったるい香の匂いが、鼻に纏わりついているかのようだ。
女と触れ合った箇所が、爛(ただ)れていく錯覚を引き起こす。
ああ、汚い汚い汚い汚い汚い――。
半狂乱になって手を洗い続けていたら、皮膚がぼろぼろになって血が滲み出てきた。
たらいの中の水が、ほんの一部分だけ淡い赤に染まっていく。
その様が、徐々に穢れていってる俺の身体のようで、吐き気が込み上げてきた。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
俺はただ、平和に生きたかっただけだというのに。
それなのに、今では母を殺害したという濡れ衣を着せられ、兄の影武者として仕立て上げられ、息を潜めるような生活を強いられている。
自害させられそうになった間際、春日に「生きたいか」と問われ、頷いてしまったことが間違いだったのか。
いや、違う。
そもそもの元凶は、春日だ。
そして、あの女の期待に応えられなかった兄も含まれる。
あの二人のことを考えると、頭の中が煮えたぎり、心の中が憎悪で黒く染め上げられ、気が狂いそうになってしまう。
だが、今ここで壊れるわけにはいかない。
時機を待つのだ。
二人に復讐し、己と同じどん底を味あわせる絶好の時機を。
俺はぐっと下唇を噛み、今にも溢れ出そうになる復讐心を寸(すん)でのところで押しとどめる。
その時までは、耐えてみせようではないか。
この下級女郎のような境遇に。
そうだ、後で唇に紅を差そう。
復讐心への戒めとして、鮮烈で毒々しい紅を差そう。
唇の薄い皮膚が破れてそこから血が溢れ、俯いていたため床板へとぽたぽたと零れ落ちていく。
その様子は、さながら俺が血の涙を流しているかのようだった。