トラワレビト〜咲き初めの花 媚薬の蝶〜
□第八章 『光に包まれて』
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夜、俺は庶民が身に包んでいるような小袖や羽織、袴を着用して帯刀し、さらに風呂敷を斜めに背負うと、そっと自室から抜け出した。
昔から時々、城から離れてこっそりと市へ出かけたりしているから、気配や足音の殺し方は熟知している。
正盛にでも勘づかれない限り、無事外へ出られるだろう。
彼の存在を危惧して歩を進めるものの、時折奉公人を見かける程度で、恐ろしく城内は静まり返っている。
夜なのだから静かで当然なのだが、よからぬことをしようとしているからか、何となく不気味だ。
何とか庭に出て、厩舎(きゅうしゃ)へと向かう。
馬たちの様子を確認すると、どうやらほとんどが眠っているらしい。
ふと、一頭の馬が小さな鳴き声を上げた。
俺の愛馬だ。
俺の気配に気がついて目を覚ましたのか、あるいは元々起きていたのか。
どちらにせよ、好都合だ。
俺は愛馬である蒼へ近づき、彼の耳元で囁く。
「……蒼。遠くまで俺を連れて行って欲しいんだけど……今、走れるか?」
蒼は返事の代わりに、再び小さく鳴いた。
それは肯定の意を示すような声音だったので、俺は躊躇なく彼に馬具を取りつけていく。
その間も嫌がる素振りを見せなかったから、俺の勘は当たっていたらしい。
やはり、馬は聡明だ。
長く付き合っていれば、こうして言葉が通じるのだから。
俺は手綱を引いて蒼を厩舎から外へ連れ出すと、ひょいと鞍(くら)に飛び乗る。
そして辺りの様子を窺うと、案の定俺が秘密裏に造らせた裏口には人の気配がない。
逃げるなら、今しかない。
深く息を吸い込み、勢いよく蒼の腹を蹴り上げる。
すると彼はいななき、まさしく飛ぶような勢いで駆け出す。
秘密の裏口を何事もなく通り抜け、ここまで上手くいくものなのかと、蒼を走らせたまま首を傾げる。
だが、今は不思議がっている場合ではない。
己の運のよさに感謝し、少しでも距離を稼がなければならない。
いつ、追っ手が放たれるのかは時間の問題なのだ。
「……今夜は、休まないで走り続けるしかないな。蒼、この調子で頑張れるか?」
そう訊ねた途端、本日三度目の返事が耳朶を打つ。
さて、一体どこまで逃げ切れるか。
金はそれなりの量を小袖の袂に入れて持って来たが、俺は旅をしながらの生活がどんなものなのか、あまり想像がつかない。
しかし、夢物語のように幸運な出来事ばかりが待ち受けているわけではないことくらい、俺にだって分かる。
天下人の子息としてぬくぬくと育てられてきた俺にとっては、過酷な試練が立ちはだかるに違いない。
それでも、あのままあそこに居続けるよりは余程ましだ。
城から遠ざかっていくにつれ、自然と気分が高揚してくる。
こんなにも晴れやかな気持ちになれたのは、いつぶりだろうか。
蒼の腹をもう一度蹴り上げ、より駆ける速度を上げていく。
「とりあえず、西を目指すか」
心地よい夜風が頬を撫でるのを感じながら、ぽつりと呟く。
西の方は、将軍よりも天皇を崇めている人々の方が多い。
朝廷が治めてきた年月が、圧倒的に長い地域だからだろう。
今は幕府が日の本を治めているからあまり関係ないだろうが、俺からすれば打ってつけの隠れ蓑に思えた。
何故だか、西の方へ逃げれば上手く身を隠せるような予感がする。
俺は軽快に蒼を走らせ続け、口の端に笑みを浮かべた。