トラワレビト〜咲き初めの花 媚薬の蝶〜
□第七章 『消せない傷痕』
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母上が来る。
そう考えただけで、喉がからからに干乾(ひから)びていく。
「兄上、大丈夫?」
緊張で身体をがちがちに強張らせていると、国千代が心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「大丈夫。父上と母上に会うだけなんだから……緊張する必要ないよな」
心優しい弟にあまり心配かけないよう、意識して明るい声を出したのだが、かえって不自然になってしまった。
やがて障子戸がすっと開き、父上と母上が姿を現した。
母上は、絶世の美女と謳われた女人の娘だけあり、かなりの美人だ。
だが、とてつもなく気が強いため、俺にとっては恐怖の象徴だ。
俺の乳母であるお福とも頻繁に口論を繰り広げている事実が、さらに恐怖心を根強くさせていく。
そんな母上が、父上も怖いのだろう。
いつも母上の顔色ばかり窺っており、父親の威厳というものが微塵も感じられない。
これでも将軍なのだから、ある意味すごいと思ってしまう。
母上たちは、二人並んで正座している俺たちのところへ近づいてくると、俺には一瞥もくれず、国千代へ笑みを向けた。
「国千代、聞いたわよ。貴方にお勉強を教えてくれる先生が、とても教えがいのあるご子息だって、おっしゃってたそうね。貴方の母として、鼻が高いわ」
「そんな……先生の教え方が上手なだけです」
「謙遜することないんだぞ。今日は、お前が頑張ってる褒美に平戸から取り寄せた、かすてらを持って来たんだ」
「わあ、ありがとうございます! 父上、母上!!」
母上たち相手に、はきはきと受け答えができる国千代が羨ましい。
母上たちから視線すら向けられない自分が、どうしようもなくちっぽけな存在に思えてくる。
思わず俯いた拍子に、すぐ目の前で人の気配がした。
おそるおそる顔を上げると、そこには冷ややかにこちらを見下ろしてくる母上がいた。
「……あ、あ、の……!」
早く挨拶をしなければ。
そう焦れば焦るほど言葉がつっかかってしまい、最終的には吐息しか出せなくなってしまった。
内心だらだらと冷や汗をかいていると、母上がすっと目を眇めた。
「……出来損ない」
侮蔑の込められた言葉が、心に深々と突き刺さっていく。
でも、そう言われても仕方がない。
挨拶すらまともにできないのだから、俺は母上の言う通り出来損ないなのだろう。
母上は嘆息すると、身を翻した。
父上は何か物言いたげにこちらをちらちらと見てはくるものの、声をかけようとはしない。
おそらく、母上を恐れて何もできずにいるのだろう。
それに、父上に無理してもらってまで構ってもらいたいとは思わない。
父上が俺に対して抱いている感情は、息子への愛情ではなく憐れみなのだから。
そのくらい、相手の目を見れば分かる。
「お待ちくださいませ、お江様!!」
母上が障子戸に手をかけた途端、部屋の隅で控えていたお福が声を張り上げた。
何事かと、俺たちは一斉に振り向く。
彼女は目に強気な色を宿し、ひたと母上を見据えていた。
「……一体、何の用かしら?」
母上は不機嫌そうに眉をつり上げると、お福へにじり寄って行く。
お福は臆することなく、母上から目を逸らさずに言葉を発した。
「お江様。いくら貴女様が竹千代様のお母上であろうと、あのような発言は慎んで頂けないでしょうか?」
「出来損ないに出来損ないって言うのの、どこが悪いのよ?」
「竹千代様は吃音という病を患っていらっしゃるため、上手くお話しできないのはお江様もご存知のはずです。そもそも、この病の原因は貴女様にあるのではないですか? お江様」
「どういう意味よ!?」
「竹千代様は国千代様やわたくしには、一度も言葉がつっかえることなくお話しできます。しかし、お江様相手ですと吃音が発症しています。つまり、貴女様さえ竹千代様に関わらなければ、竹千代様は国千代様に劣らぬご子息でいられるはずです」
「何、言ってるのよ!? 国千代の方が優秀に決まってるじゃない!! たとえ吃音を抜きにしても、竹千代は生まれた時から身体が弱いし、癇癪をすぐに起こすし、年下の国松よりも頭が悪いのよ!?」
「お勉強ならば、これからもまだまだ伸びる余地がありますし、お身体だって成長していくにつれて強くなるでしょう。癇癪だって、そのうち起こさなくなると思います。吃音も、充分治る可能性がございます。それに、剣術や乗馬の腕前に関しては、今の段階で既に国千代様よりも遥かに優れていらっしゃいますよ?」
「剣術も乗馬も、将軍になるには必要のない能力じゃない! 国千代だって、竹千代と同じ年になればそのくらい容易にできるようになるわよ!!」
母上とお福の論争に、果たして終わりはあるのだろうか。
ちらりと父上に目を向けると、おろおろと右往左往している姿が視界に映り、とても二人の言い争いを止められるようには見えない。
俺は小さく溜息を吐き、そっと国千代の手首を掴む。
「……兄上?」
「……このままじゃ埒が明かないから、隣の部屋に逃げ込むぞ」
「うん」
足音を忍ばせて障子戸へ向かい、音を立てないようにそろそろと開ける。
ちらりと後方を窺うと、母上とお福はこちらに気づきもせず、未だ互いを罵り合っていた。
醜いと心の中で呟き、俺たちはこっそりと険悪な空気が立ち込める部屋から抜け出した。