トラワレビト〜咲き初めの花 媚薬の蝶〜

□第二十三章 『トラワレビト』
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家光様に身体を拭いてもらい、再び彼の着流しを着せられた後、女中が昼餉を運んできた。

しかし、あんなにも激しく求められた後では食欲など湧かない。

どんな事態に陥ろうとも諦めずに最善の道へ進むには、しっかりと栄養を摂らなければならないということは頭では理解しているが、倦怠感が食欲を削ぎ落してしまった。

ただぼんやりと膳の上に並べられた食事を眺めていたら、怪訝に思ったのか家光様が顔を覗き込んできた。

「お万? 食べないのか?」

「どうしても、そういう気分になれなくて……」

一体誰の所為だと思っているのかと内心毒づいていると、彼は考え込む素振りを見せてから部屋の外へ向けて声を張った。

「おい、誰かそこにいるか?」

「いかがなされましたか、上様」

部屋の外に控えていたのは、奉公人の殿方だったらしい。

返ってきた低い声に、家光様はすぐさま応じる。

「お万の食事を粥に変えろ。そうだな……霰粥(あられがゆ)を準備しろ」

「かしこまりました、今しばらくお待ちくださいませ」

家光様が指定した粥の種類に、ほっと胸を撫で下ろす。

霰粥とは、米の上に出汁を張って鯛(たい)などの白身魚の身を焼きほぐして乗せたものだ。

既に朝餉は抜いてしまったので、全く何も食べないわけにはいかないという中で、あっさりしたものを用意してもらえるのはありがたい。

せっかく用意してくれるのだから全部食べようと決意した傍で、彼がこちらへと向き直る。

「お万、食欲がなくても少しは栄養を摂らないと」

「お気遣い、痛み入ります」

「わざわざ礼を言われるほどのことじゃないって。お万は俺の子を産むんだから、身体を大事にしないとな」

「――は……?」

突拍子もない発言に、つい素っ頓狂な声を上げてしまう。

私が家光様の御子を産む。

それは現実的に考えれば、不可能な話だ。

何故なら、私は公家の娘なのだから。

私が直接伝えたのだから、彼もそのことは知っているはずなのに、どうしてそんなことを言い出すのか。

戸惑いを露わに家光様が何を考えているのか読み取ろうとすれば、彼はにっこりと微笑んだ。

「何を驚いてるんだ? お万は俺の妻なんだから、俺の子を産むのは当然だろ?」

「で、ですが――」

「……早く、ここに宿らないかなあ。俺とお万の血を分けた命。男でも女でもどっちでもいいけど、強いて言うならお万によく似た可愛い姫がいいな」

家光様はこちらの言葉を遮り、畳に手と膝をついて近づいてくると、私の腹を撫でてうっとりと目を細めた。

その様にぞっと背筋が冷え、意味もなく口を開閉させる。

彼が触れている私の腹に膨らみはなく、命が宿っている気配は微塵もない。

それなのに、家光様の手が上下に動く度に私の中に何かが植えつけられているような錯覚に陥り、吐き気を催す。

彼はひとしきり撫でたら満足したのか、こちらから離れて自分の膳の前へ戻ると、食事に手をつけ始めた。

狂っていると、心の中で呟く。

先程までは深淵のごとき闇をその身から滲み出していたというのに、今ではその片鱗すら感じられない。

精神状態が安定している、無邪気で明るい家光様にしか見えない。

その落差に改めて戦慄し、ぎゅっと襟元を掻き合わせる。

とは言っても、この着流しは家光様のもので、私と彼とでは背丈も体格も全然違うので、襟元を掻き合わせるとそのまま着流しの中に沈んでしまいそうだ。

そのため、着流しを身に纏っているにも関わらず、少しも気分が落ち着かない。

細い帯で締めているものの、すぐに肩は剥き出しになりかけるから、胸元も気を抜けば肌蹴そうになってしまう。

上が崩れれば自然と下にも影響が及び、太ももの半ばまで足を晒している状態になってしまう。

そのくせ手は袖に埋もれ、着流しの裾は無駄に長いため、立ち上がる際は転びそうになるのは目に見えており、動きにくくて仕方がない。

大きさの合わない着流しの着心地を少しでも改善しようと苦心していると、いつの間にか昼餉を平らげてしまったらしい家光様が立ち上がり、こちらへ歩み寄ってくるとしゃがんで私と目線を合わせてくる。

「お万、何してんの?」

「……あの、家光様。やっぱり、昨夜着てた帷子を着たいです」

「あれ、雨で重くなっちゃってるから乾かしておいた方がいいよ。今からでも乾かしておくよ。気が回らなくてごめんな」

「いえ、私もそこまで考えてませんでしたから……家光様が気に病むことはありません。それでしたら一度、大奥に戻ってもよろしいでしょうか? あそこには、たくさん装束がございますので――」

「――そうやって口実を作って、俺から逃げるつもりか?」

家光様の声に剣呑とした響きが帯び、こちらへ向けられている目には猜疑心がありありと浮かんでいる。

あっという間に辺りの気温が下がった気がして、知らずぶるりと身を震わせる。

彼の手がこちらへと伸び、その指先が私の頬を撫で上げていく。

「お前は……そんなに俺から逃げたいのか?」

本音を言えばその通りだが、ここで頷けば確実に家光様の闇をより深いものにしてしまう。

私は密かに深呼吸をし、声が震えないように気をつけつつ言葉を発する。

「……違います。そういうつもりで申し上げたわけじゃありません。ただ、生活に必要なものを取りに行きたくて、大奥に戻る許可をいただこうとしたんです」

「でも、このまま行かせればお前に逃げる機会ができる。それは紛れもない事実だ。それに、たとえお前にその意志がなくても、大奥の連中はお前をあそこに繋ぎ止めようとするかもしれない。だから、絶対に行かせるものか」

理路整然と自分の考えを述べても、家光様の中から私を疑う気持ちは消えてはくれなかった。

その事実が私の胸を抉り、見えない傷から血がどくどくと溢れ出していく。

彼は、そこまでして私をここに閉じ込めておきたいのか。

僅かでも自分から離れていく可能性があるものは、片っ端から潰していくのか。

家光様は、可哀想な御方だ。

理不尽な目に遭っているのは自分なのに、不思議と同情の念が押し寄せてきた。

徹底的に不安要素を排除しなければ心が休まらないなんて、辛くはないのだろうか。

誰も信用できないのだとしたら、あまりにも寂しい。

「……家光様は私のことを愛してるとおっしゃってくださったのに、その私を信じることもできないんですね」

家光様の目を見つめたままぽつりと言葉を零せば、彼は虚を突かれたように息を詰めた。

家光様は何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も発しないで私から目を逸らした。
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