トラワレビト〜咲き初めの花 媚薬の蝶〜

□第二十二章 『今宵限りの』
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忠長様との一件を水に流した後。

彼はやや驚きが抜け切れない状態ではあったらしいものの、色合いや柄がかなり控えめな着流しに着替え、現在隣を歩いている。

「で? 正盛のとこで何すんの?」

正盛の元へ出かけるとしか伝えていなかったので、怪訝そうにこちらを見てくる忠長様に、にっこりと微笑みかける。

「正盛の屋敷にある道場で、少し剣道でも嗜もうかと」

「うーわー……これまた色気のない」

「身体を動かすのは、健康にいいんですよ? 国千代さんが事情が事情なので仕方ないかもしれませんが、部屋に籠ってばかりじゃ身体に悪いですよ? 色気云々よりも、まずはご自分の体調管理について考えるべきです」

「お梅、母親みたい」

「……そうでしょうか?」

「うん。あいつにも、そんな風に接してたの?」

彼が口にした「あいつ」とは、家光様のことだろう。

この間の一件を思い出しかけ、慌てて頭を振ってから口を開く。

「そうですね……こんな感じだったと思いますよ」

「なるほどねぇ……だからあいつ、あんなにお梅に懐いてたんだ」

「どういう意味ですか?」

「んー? ほら、あいつって愛情に飢えてるでしょ? だから、そういう風に自分自身の心配をしてもらえると嬉しくて仕方ないんだよ。まあ、俺の場合は愛情に飢えてるとはまた違うけど」

本人は否定しているが、忠長様も充分愛情に飢えている気がする。

だが、わざわざ指摘することでもないだろうと考えて聞き流す。

「それじゃあ、誰かに構って欲しくて仕方のない、子供みたいですね」

「確かに。それに、お梅って根に持たないじゃない? 話を蒸し返すようで悪いけど、さっきのことだって拳一発で許してくれたし。ねちねちと攻撃されるの覚悟してたのに、潔いなあって思ったよ。そういうとこ、付き合いやすくて好きなんだよねぇ。お梅の美点だよ」

好きという単語に、どう反応したらいいのか分からなくなり、思わず眉間に皺が寄ってしまう。

まさか私を女として好きと言ったのではないかと、自惚れだと自覚しながらも猜疑心が芽生えていく。

探るような目つきで見遣れば、彼は軽く肩を竦めた。

「ああ、誤解を招くようなこと言っちゃって悪かったねぇ。俺、お梅のこと他の女とは区別してるけど、まだそういう意味で好きなわけじゃないから」

「……まだ?」

引っかかる言い方をされて繰り返すと、忠長様は楽しそうに口の端を持ち上げた。

「そう、まだ。今は一蓮托生の悪友って感じかなあ。だから現状維持したいなら、あんまり気を持たせるような真似、しないことだね」

「そうするつもりは少しもありませんけど……その割には私が着替えてる現場を見た時、うろたえていらっしゃいませんでした? 話を蒸し返すようで、悪いですけど」

「だから言ったじゃない。『他の女とは区別してる』って。それにお梅、そこらの女とは比べ物にならないくらい、いい身体してるしねぇ」

その言葉を耳にするなり、私は忠長様の足の爪先を勢いよく踏みつけた。

直後、声にならない悲鳴を上げた彼に恨めしげな目を向けられたが、素知らぬ顔でそっぽを向く。

やはり、あの時の話題を持ち出すのではなかった。

若干の苛立ちを抱えつつも、忠長様が私に異性として好意を寄せているわけではないと知り、密かに安堵の溜息を吐く。

これ以上、頭痛の種を増やすわけにはいかない。

今だって色々と問題を抱えていて大変なのに、さらに厄介事ができてしまったら、こちらの身が持たない。

自室にいた時同様、思考の海に沈みそうになり、懸命に意識の外へと追いやろうとしている私に、彼はぽつりと言葉を零す。

「……大丈夫だよ、あんたが心配するようなことにはならない。他人のものに手を出すほど、俺は愚かじゃないから」

はっと息を呑んで顔を上げたものの、忠長様は普段通りの妖艶な笑みを浮かべているだけだった。

本当にこの口から発せられた言葉なのだろうかと凝視していると、彼は小首を傾げた。

「どうかしたの?」

「……ありがとうございます」

突然礼を告げられて眉根を寄せる忠長様に対し、私はただ微笑んだ。

彼だって私が何に対して感謝の言葉を述べたのか分からないはずはないのに、知らない振りをするなんて本当に素直ではない。

贅沢な悩みだと重々承知しているが、あまり恋愛感情を向けられると対処に困ってしまう。

だから、一人でもその対象から外れるととても助かる。

そして、その相手と何の気兼ねもなしに交流ができるから心が休まる。

こういうことを考える自分に嫌気が差すが、ある程度打算的にならなければ、余計に事態が悪化してしまいそうで怖いのだ。

無意識に残酷な言動を取れば、何とか均衡を保っている何かが壊れてしまう気がする。

複雑な心境に陥っていると、不意に袂をくいっと掴まれた。

「……国千代さん?」

怪訝に思って問いかければ、忠長様は静謐(せいひつ)な眼差しをこちらへ注いだ。

「お梅、本当に大丈夫?」

何がと訊かなくても忠長様の言いたいことを汲み取り、どう答えたものかと考えを巡らせる。

彼は十六夜とのことは微塵も知らないから、消去法で考えれば家光様とのことだろう。

加えて、忠長様には家光様に強引に迫られた場面を見られているから、こちらの身を案じてくれているに違いない。

僅かに押し黙った後、小さく頷く。

「……私は、大丈夫ですよ」

そう言いながら、そっと自分の首筋に触れる。

あの時につけられた痕は、今では綺麗に消えている。

しかし、未だに痕をつけられた際の感触だけは残っているような気がして、少し薄気味悪い。

彼は私の袂から手を放すと、細く息を吐き出した。

「……ごめん、踏み込み過ぎた」

忠長様の謝罪の言葉に、ふるふると首を横に振る。

「いえ、そんなことはありません! むしろ、こうして案じてくださって、とても嬉しいです。……気にかけてくださる御方がいらっしゃると思えば、また頑張れる気がしますから。それに、あの御方とのことは……国千代さんくらいにしか話せませんから」

「それなら、いいけど……本気で辛くなったら逃げてもいいと思うんだよねぇ、俺は」

「逃げる、ですか?」

目を瞬く私に、彼はこくりと頷く。

「そう。お梅は真面目過ぎるんだよ。嫌になったらある程度いい加減になってもいいんじゃないの? あんまり真剣に受け止め過ぎると、いつか壊れちゃうよ?」

壊れてしまうという響きが、やけに胸に深々と突き刺さっていく。

おそらく、私が今最も恐れていることだからだろう。

そうこうしているうちに正盛の屋敷へと辿り着き、こうなったら胸にわだかまっているものが全て吹き飛んでしまうくらい、思い切り身体を動かそうと気分を入れ替えた。
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