トラワレビト〜咲き初めの花 媚薬の蝶〜
□第二十一章 『魔を司る者』
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忠長様と水浴びをした後、囲碁を一局だけやって彼は自室へと帰っていった。
何故一局だけなのかというと、忠長様が強過ぎて勝負にならなかったからだ。
私はそこまで頭が悪かったのかと、打ちひしがれながら碁盤や碁石を片付けていたら、ふと畳の上に転がっている結ばれた紙が目に留まる。
何だろうと結び目を解(ほど)いてみると、そこには一見粗野でありつつも流麗にも思える、不思議な字が綴られていた。
『今夜、吉原に来て欲しい。前、あんたのとこに忘れ物したから、それ持ってきて』
文はそこで終わっており、宛名も差し出し人の名も書かれていない。
だが、これは夕月からの文で間違いないだろう。
「それにしても、忘れ物って……?」
夕月が忘れ物をしていった覚えなど、微塵もない。
頭を捻って考え込んでいると、部屋の片隅に夕日を反射してきらりと輝くものが落ちていた。
怪訝に思いながら拾い上げてみれば、それは彼が普段首から下げている首飾りだった。
何をどうしたら首飾りを忘れるのかと、眉根を寄せる。
ここで外したところなど一度も見たことがないし、首飾りの紐が千切れた形跡もない。
大体そんなに小さいものでもない上、首飾りを身に着けているか否かはすぐに分かりそうなものだ。
となると、夕月がわざとここに置いていったのかもしれない。
口実を作り、私自らが彼の元へ赴くように仕向けたのかもしれない。
夕月が私を呼び寄せる理由は、いつかの酒の席を共にするという約束を果たすためだろうと、容易に予測がつく。
しかし、どうしてわざわざ私を招くのだろう。
彼の住んでいる場所は、吉原だ。
正盛から聞いた話によれば、女が一人で行くような場所ではない。
ましてや夜となれば、ますます不審に思われるだろう。
そのくらい、夕月の方が余程理解していそうなものなのに、何故私の部屋では駄目なのか。
彼は頻繁にここへ訪れていたのだから、今になって足を運ぶのが億劫になったとは考えにくい。
それに予定が空いたらという話だったので、仕事が忙しくて私に来てもらうしかなくなったというわけでもないだろう。
いくつか思い浮かんできた仮定の話を、一つ一つ検証しては打ち消していく。
そして、最後に残った可能性は一つだけとなった。
「……絶対に、私だけにしか聞かせたくない話があるから?」
ここでも充分内密の話はできそうだが、万が一ということはある。
私の部屋で話を耳に挟んでしまう可能性があるのは、夕月と同じく魔羅である十六夜と、その存在を知っているお玉の二人だ。
「この二人に聞かれたくないってこと……?」
そこまで考え、半分当たりで半分外れだろうと即座に思い直す。
お玉の場合は、頼めばこちらの話に聞き耳を立てたりせず、自分の部屋へと戻っていくだろう。
それに彼女は、いつも私と一緒にいるわけではない。
基本的に、お玉と共に過ごすのは昼過ぎから夕方にかけてであり、夕餉の時刻以降はほとんど会わない。
だから、夕月が話を聞かれたら困ると思っている相手は、十六夜ただ一人だ。
そう考えた方が、色々と納得がいく。
十六夜は最近、以前よりも私の傍にいることが増えた気がする。
大奥入りして以来、疎遠になりつつあったように感じていたのに、私が眠りから覚めない事件を引き起こした後は、何かと一緒にいることが多くなった。
ここ数日は忠長様の来訪があったので、十六夜には席を外してもらっていたものの、そのことを夕月が知っているとは思えない。
彼もまた、ここ数日顔を合わせていないのだから。
だから、きっと十六夜に知られたくはないが、私には知って欲しい何かを打ち明けたくて、こんな忘れ物を届けるという口実を作ってまで、こちらから足を運んで欲しかったのだろう。
それにしても、その話とはどういったものなのか。
「……こうやって考えてても仕方ないわね」
夕月の真意を知るには、直接本人に問い質すのが一番手っ取り早い。
そうと決まれば、さっそく出かける支度をしなければ。
夕餉の準備で慌ただしくなってきた時間帯だったので、夕餉はいらないという言伝(ことづて)をお玉に預かってもらった。
彼女はこちらの事情を大体は把握しているから、外へ出かけると言っても特に驚いた様子はなく、快く頷いてくれた。
あとは、側室としての装束から町娘に扮する着物に着替えるだけだ。
私は長持から、新緑の季節の頃、家光様からいただいたお小遣いで夏用にと購入した、萌黄色の布地に桔梗の花が鮮やかに刺繍されている帷子と、藍色の帯を取り出す。
それらに着替え直すと、夕月の忘れものとやらを巾着に入れ、一通り部屋を片付けてから秘密の裏口へ向かう。
ここから吉原までは少し距離があるので、今から出発しておいた方がいいだろう。
この時間帯での女の一人歩きは危険だと判断し、町に出たところで駕籠を拾う。
悪漢に襲われたところで返り討ちに遭わせる自信は充分あるが、騒ぎを起こさずに済む方法があるなら、その手段を選ぶに越したことはない。
駕籠を担ぐ駕籠舁(かごかき)に行き先を告げると、物珍しそうにじろじろと見られてしまった。
それはそうだろう。
吉原まで足を運ぶ女など、珍しくて当然だ。
元より予想の範疇内の反応だったので、私は素知らぬ顔で受け流して駕籠へと乗り込んだ。
駕籠舁はこちらに興味津々といった様子だったが、私があまりにも平然とした態度を貫いていたからか、特に行き先について追究したりせず、黙って駕籠を運び始めた。
私は駕籠に揺られながら、ぼんやりと暮れゆく街並みを眺めた。