トラワレビト〜咲き初めの花 媚薬の蝶〜
□第二十一章 『魔を司る者』
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「これで大体隠せたかな。お万、もういいよ」
忠長様と共に自室へ戻った後、彼に首にくっきりと痕が残っていると指摘され、白粉(おしろい)を塗って隠してもらった。
自分でやってもよかったのだが、鏡で赤くなっているであろう痕を確認する勇気がなくて、私から塗って欲しいと頼んだのだ。
この目に映してしまったら、あの時の恐怖が蘇ってきそうな気がしたから。
「……ありがとうございます、忠長様」
化粧道具を片付ける忠長様に、抑揚の少ない声で礼を告げる。
彼には助けてもらっただけではなく、こうして気まで遣ってもらっているのだから、本来ならばこれ以上心配をかけずに済むよう、明るく振る舞うべきなのだろう。
でも、先刻の家光様の尋常ではない様子が、頭からこびりついて離れない。
そして思い出す度に、身体の芯がすうっと冷えていく。
寒くもないのに震えそうになる身体を誤魔化すよう、拳をきつく握り締める。
唇を噛んで俯く私を見て何を思ったのか、忠長様は立ち上がるとこちらに手を差し伸べてきた。
「お万、約束忘れてないよね? 水浴びしようよ」
「え……?」
家光様との衝撃的な邂逅で忘れかけていた約束を口に出され、私は顔を上げて目を瞬く。
彼は至っていつもと同じ調子でにやりと笑い、そっと私の手を掴む。
「俺に、お万の綺麗な御御足(おみあし)を見せてくれるんでしょ? 楽しみにしてたんだけど」
先程の出来事などまるでなかったかのよう、いつも通りの意地悪な口調で話しかけてくる忠長様に、目頭が熱くなっていく。
彼なりに、私の気を紛らわせようとしてくれているのだ。
家光様に対する恐怖心が少しでも薄れるよう、私の意識を自分の方へと向けようとしてくれているのだ。
熱いものが喉に込み上げてきたが、寸でのところで飲み下して精一杯微笑む。
ほんの僅かでも、忠長様の優しさに報いたいから。
「……そうですね! 女中に頼んで、水を持ってきてもらいましょうか」
私はできる限り明るい声を出し、忠長様に掴まれた手をきゅっと握り返して立ち上がる。
にこにこと笑う私に安堵したのか、彼の頬がほんの少しだけ緩む。
「へぇ……? お万、そんなに張り切って肌を見せようとするなんて、意外と積極的だねぇ」
喉の奥で笑う忠長様に、むっと唇を尖らせる。
「肌と言っても、足の、それも膝から下だけですから」
「は? 何それ、もう少し俺の目を楽しませてくれてもいいんじゃないの?」
「これが限度です! これでも充分、恥ずかしいんですから!!」
尚も食い下がってくる彼を綺麗に無視し、近くにいた女中に声をかけて水を持ってきてもらう。
ほどなくして水の張った桶が二つ届けられ、縁側の下へと置く。
日射しを反射してきらきらと輝く水面を見ていると、無理をせずとも自然と気分が高揚していく。
「忠長様、さっそく水浴びしましょう!」
意気揚々と声をかければ、どうしてか忠長様はどこか切なそうに目を細めた。
「……もっと、色気のある展開を期待してたんだけどなあ」
「私にそういうものを求めても、無駄ですよ」
ぴしゃりと言い放ち、足袋を脱ぎ棄(す)てていそいそと帷子の裾を膝まで上げる。
縁側へと腰を下ろし、桶の中の水に足を入れれば、ひんやりとした感触が足の爪先(つまさき)から伝わってくる。
ほうっと息を漏らすと、後ろにいる彼へと声をかける。
「忠長様、とても気持ちいいですよ! 忠長様も、どうぞ――」
「わお……予想以上に綺麗な足だねぇ」
忠長様はそう言うや否や、私の隣に座ってしげしげとこちらを眺めてきた。
その不躾な視線を窘(たしな)めようとしたら、彼は何の前触れもなく私の右足を持ち上げた。
ぎょっと目を剥く私に構わず、忠長様は殿方にしては繊細な指先でふくらはぎの線に沿ってなぞり上げていく。
その感覚に身を震わせたのも束の間、即座に頭の中が燃えてしまいそうなほどの怒りが込み上げ、衝動のままに彼の顔面に手の甲を叩きつける。
「ぶっ!?」
突然の襲撃に対応できず、まともに衝撃を食らった忠長様は鼻の辺りを手で押さえる。
幸い、鼻血が出たり鼻が曲がったりはしなかったらしい。
冷ややかな目でその様子を眺めていると、彼は恨めしげにこちらを睨んだ。
「何するの」
「それ以上馬鹿な真似をしましたら、その綺麗な顔を、渾身の力で原形を留めないくらい殴って差し上げましょうか?」
にっこりと微笑む私に、忠長様は不満げに口を開く。
「お万、少しなら見てもいいって言ってたのに」
「誰が、触ってもいいと申し上げましたか?」
「誘惑するお万が悪いと思うんだけど」
「いつ、どこで、誰が、そんなことをしたとおっしゃるんですか!!」
「今、ここで、お万が」
「どうして、こういう時だけ律儀に答えるんですか!?」
「お万が訊いてきたんじゃない」
「それはそうなんですけど、何だか納得いきません!!」
「まあまあ、落ち着きなって。そんなに怒ってたら、せっかく涼んでる意味がなくなっちゃうよ?」
「誰の所為だと思ってるんですか! 誰の!!」
「俺の所為だろうねぇ」
飄々とした忠長様の物言いに、苛立ちが込み上げてくる。
そんな私の様子に彼は軽く肩を竦め、もう一つの桶をこちらへと引き寄せてきた。
すると、忠長様も私と同様、着流しの裾を膝の辺りまで上げ、ちゃぷんちゃぷんと揺れる水面に足を入れる。
彼の足は陶器みたいに白く滑らかで、その美しさに息を呑む。
その足が水に濡れていく様は妙に妖艶で、ついそろそろと目を逸らす。
そんな私の反応を横目で見ていた忠長様は、微かに笑みを漏らす。
その笑い方まで、相手の脳髄を蕩けさせてしまうのではと思うほど艶めかしい。
「どうしたの? お万。急にそっぽ向いちゃって」
「い、いえ……。何でもありません……」
「何でもないなら、こっち向けば?」
「そ、それは……遠慮させて頂きます……」
忠長様は色気のある御方だと重々承知していたが、まさかここまでだったとは。
すっかり彼の雰囲気に当てられてしまった私は、火照る頬を隠したくて水面へと視線を落とす。
「耳まで真っ赤にしちゃって……お万ってば、可愛いなあ」
今回は反撃する気力も湧かず、ただひたすら身を縮み込ませていた。