トラワレビト〜咲き初めの花 媚薬の蝶〜
□第二十一章 『魔を司る者』
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頭を冷やしに行ったらしい忠長様をどこで待てばいいのか分からなかったので、とりあえず自室に戻って腰を下ろす。
彼のことだから、余裕の笑みを浮かべて私をからかうかと思っていたが、まさか動揺するなんて。
しかも、その現場をお玉にしっかりと見られてしまった。
穴があったら入りたい心境に陥り、つい遠い目になってしまう。
あんなこと、やはり口走るべきではなかった。
暑さで、頭がおかしくなってしまったのかもしれない。
きっとそうに違いないと頷いていたら、髪の先から滴を滴らせる忠長様がぬっと現れた。
「わっ、忠長様!? いつの間に戻ってこられたんですか……って、何回水を被ったんですか!?」
彼は宣言通り水を被ったらしいものの、布で水気を取ってこなかったのか、髪も着流しもぴったりと肌に張りついている。
そんな状態で気持ち悪くないのかと、唖然としてしまう。
「忠長様、お願いです。とりあえず、一度ご自分のお部屋に戻って、身体を乾いた布で拭いた後着替えてください。そのままでは、風邪を召されますよ。ああ、えっと髪は……私も付き添いますので、着替え終わったら私を部屋の中に入れてください。そうしたら、髪を拭きますので……あ、それともご自分でできますか?」
「ううん……お万がやって……」
忠長様の声には覇気がなく、目もどこか虚ろだ。
これは重症だと判断し、私は素早く立ち上がって彼の手を掴む。
「忠長様。ほら、参りましょう」
「ごめん……お万の部屋の畳、濡らした……」
「夏なのですぐに乾きますから、大丈夫です! それに万が一傷んだら交換しますので、ご自分の心配をしてください!!」
忠長様が、明らかにおかしい。
私の馬鹿な発言の所為で、彼の調子がここまで狂ってしまうなんて。
私は己の愚かさを呪い、とにかく早く行動を起こさなければと、彼の手を掴んだまま縁側に出て、ずんずんと先に進む。
指先から伝わってくる忠長様の手は、冬の世界からやって来たのではと勘繰ってしまうほど冷たい。
一体、幾度水を浴びたらこんなにも体温が下がるのか。
御小座敷が近づくにつれ、心臓が嫌な音を立てて早鐘を打つ。
こんな状況だというのに、家光様を恐れている場合ではない。
今はとにかく忠長様を何とかしなければと、即座に意識を切り替えて歩調をさらに速める。
もう、ほとんど走っている状態で御小座敷の傍の縁側を通りかかったものの、今回は何も起こらなかった。
ただしその代わり、御小座敷近辺の縁側を通っている間中、強い視線が肌を突き刺していた。
その視線は鋭いだけではなく、私の肌を舐めるような粘り気まで感じ取れるように思え、背筋に震えが走った。
廊下までくると、例の視線は感じられなくなり、ほっと安堵の吐息を漏らす。
あの視線を向けてきたのは、やはり――。
「……家光の奴、ほんっとにしつこいねぇ」
胸中で呟いた名が忠長様の口から飛び出し、はっと弾かれるように彼のことを見上げる。
正気が戻ってきたみたいで、忠長様の顔つきは普段のものに戻っていた。
「あ、忠長様。もうすぐお部屋に着きますので、着き次第先程申し上げた通り――」
「あー……さっきは、ごめん。ちょっとおかしくなってた」
「……ちょっとどころじゃなかった気がします」
私の苦笑い混じりの言葉に、彼は深々と溜息を吐いた。
「……本当に、お万には調子を狂わされてばかりだねぇ。この間は柄にもなく、叫んだり泣き出したりするし。今日はあんな不意打ちを食らわされるし……」
「えっと、申し訳ございません……」
不満を並べ立てる忠長様に頭を下げた直後、唐突に髪をくしゃくしゃと乱暴に撫でられた。
「た、忠長様! 髪が乱れてしまいますので、やめてください」
「……ちょっと黙っててよ、馬鹿」
ああ、この感じはとすぐに思い当たり、私は大人しくされるがままになる。
彼は拗ねたような口振りで、ぶつぶつと言葉を続ける。
「女に色仕掛けされたところで、今さら何とも思わないはずなのに……。お万のくせに生意気。ああいうこと、他の男に言ったら許さないから」
「言いませんよ……」
そんなに艶めいた発言をしたかと、内心首を捻る。
はしたないと思いはしても、そこから色気など感じるだろうか。
もしかして、もっと慎みを持てと言いたくなるようなことが色っぽく感じられるのだろうか。
それも何か違うと考えを巡らせているうちに、忠長様の気は済んだらしく、ようやく彼の手から解放された。
触ってみると髪の毛はぐしゃぐしゃで、きっと見るも無残な姿になっているのだろうと想像に難くなかった。
忠長様は小さく身を震わせ、さっさと部屋の中へと入っていく。
「着替え終わったら呼ぶから、そこで待ってて。俺が着替え終わったら、水浴びしよ」
「はい、分かりました」
忠長様が部屋の中に入ってからこちらへ向けられた言葉に返事をすると、私は廊下へと戻る。
そのまま縁側で待っているよりは、廊下で待っていた方が少しは涼しい。
待っている間はやることが何もないので、手で彼に乱された髪を多少なりとも整える。
「水浴び、か……」
尼寺にいた頃は、夏になると十六夜とよく一緒に足を桶の水に浸けて遊んだものだ。
顔を伏せ、その頃の懐かしい思い出に想いを馳せていると、不意に誰かが近づいてくる気配がした。
忠長様に用がある女中かと思って顔を伏せたままでいると、角の向こうからやって来た誰かは、私の前で立ち止まった。
どうしたのだろうと顔を上げれば、そこにはこちらを見下ろす家光様がいた。
「……お万」
まるで地を這うような声で名を呼ばれ、ぞくりと肌が粟立つ。
そのただならぬ雰囲気に圧倒されて怯みそうになってしまったものの、すぐに逃げなければと促す本能に突き動かされ、身を翻す。
走り出そうとした矢先、彼が壁に片手をつけたことで進路を阻まれてしまった。
「どうして逃げようとするんだ?」
おそるおそる家光様の方へ顔を向ければ、彼は憎しみにも似た感情を宿した目でこちらを凝視してくる。
その恐ろしさに、口から悲鳴が出てしまいそうになる。
家光様のどこか常軌を逸してしまったかのような表情に、全身の血の気が引いていく。
怖いと心の底から思った。
相手は愛する人に違わないのに、逃げ出したくてたまらない。
たとえお局様との誓約がなくとも、今の彼を前にすれば誰だってその場から走り去りたくなるだろう。
「お万、答えろ」
家光様に一気に詰め寄られ、思わず後退したら背中が壁にぶつかってしまった。
彼は空いている方の手も壁につけ、完全に退路を断つ。
突然の展開に頭が混乱し、まともにものを考えられない。
何とかして、この状況を打破しなければ。
しかし、思考は凍りついて本能が警鐘を打ち鳴らすばかりだ。
私の頬に吐息がかかるくらい家光様の顔が近づき、限界まで目を見開いたその時。
「――そんなとこで何してんの? 家光」