トラワレビト〜咲き初めの花 媚薬の蝶〜

□第二十三章 『トラワレビト』
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――身体が重い。

ゆるゆると眠りから覚めていく意識の中で最初に感じたのは、身体の中に泥を詰め込まれてしまったかのような、途方もない倦怠感だった。

まだ、このまま眠っていたい。

だが、瞼の裏にまで入り込んでくる光はどこまでも眩しく、私を覚醒させようと促しているみたいだ。

のろのろと重たい瞼を持ち上げた途端、寝間着の合わせ目から覗く肌が視界に飛び込んでくる。

即座には状況を理解できず、ぼんやりと目の前にある胸板を眺めているうちに、誰かに優しく髪を撫でられていることに気がつく。

その手つきがあまりにも心地よく、満たされた気持ちのまま吐息を漏らすと、私の髪を梳いていた手がぴたりと動きを止めた。

どうしてやめてしまうのかと不満に思った直後、すぐ近くから笑う気配がした。

「――おはよう、お万。って言っても、もうすぐ昼だけど」

その声が耳朶を掠めるや否や、私の意識は一気に現実へと引き戻されていく。

そして、おそるおそる視線を上げれば、いっそ寒気がするほど柔らかい笑みを浮かべている家光様が私の隣で横になっていた。

「い、家光様……どうして……?」

言葉を発してみたものの、何故か喉が痛いぐらいに渇いており、口から出た声はひどく掠れていた。

その違和感に眉根を寄せていると、彼はくすりと笑みを零す。

「ああ、昨夜は俺の名前を呼んでくれるまで随分意地悪しちゃったからな。たくさん声を上げてたから、喉痛めちゃった? 今、水を持ってこさせるから、ちょっと待ってて」

家光様は上体を起こすと身なりを整え、立ち上がってどこかへと向かった。

彼がいなくなった途端、妙にうすら寒く感じて肩を掻き抱き、思わず息を呑む。

指先が触れたのは寝間着ではなく、素肌だったのだ。

戦々恐々と視線を落とせば、悲鳴を上げそうになった。

私は一糸纏わぬ姿になっており、その肌の上にはおびただしい数の口付けの痕があったのだ。

それだけで昨夜に何があったのかまざまざと思い起こされ、羞恥と愕然とした気持ちが胸中に芽生えていく。

とりあえず、どこに寝間着があるのだろうと起き上がって辺りを見渡せば、少し離れたところに帷子や下着、帯が脱ぎ散らかされていた。

立ち上がって取りに行こうとしたら、唐突に下肢に鈍い痛みが走った。

その痛みが昨夜の行為の名残りだと理解するなり、形容し難い感情が込み上げてくる。

私はふるふると首を横に振り、意識を切り替えて着物のところまで這って進む。

無様な格好で何とか身に着けるものに手を伸ばして手繰り寄せ、ほっと安堵の吐息を漏らす。

「お万、着替えたいの?」

背後から声をかけられ、びくっと肩が跳ね上がる。

びくびくとしながら肩越しに後ろを振り返れば、家光様がこちらを見下ろして立っていた。

昨夜から彼の纏う雰囲気や目から狂気は消えてはくれず、自然と恐怖心が掻き立てられる。

獣に追い詰められた獲物になった錯覚に囚われている己を叱咤し、震えそうになる唇をどうにか開く。

「は、はい……。だって何も着てないと、落ち着かないですから。それに、御湯殿で身体を洗い流したいですし……」

「そっか。じゃあ、俺がここで身体を拭いてあげるよ。お湯や手拭いも持ってこさせるからさ。あと落ち着かないなら、俺の着物を着てるといいよ」

「え……?」

矢継ぎ早に発せられた言葉に、ただただ目を白黒させるしかない。

どうして、ここから出してはくれないのだろう。

そもそも、ここはどこなのか。

何故、自分の寝間着を私に着せようとしているのか。

尽きない疑問に頭の中が埋め尽くされそうになっている私に、家光様はゆったりとした口調で語りかける。

「だってお万、今の状態じゃ歩くの辛いだろ? だから、俺がお万の面倒を看てあげるよ」

一つ目の疑問は氷解されたが、まだ残りの疑問は理解できていない。

それに今さらかもしれないが、昼間から彼に肌を晒すのは居たたまれない。

勇気を振り絞り、思ったままに言葉を紡ぐ。

「あの、家光様……。家光様の手を煩わせずとも、自分のことは自分でできます。それから、ここはどこなんですか? 着るものは自分のものじゃ駄目なんですか……?」

私は畳の上に腰を下ろす体勢になって身体を反転させ、掴み取った帷子で肌を隠す。

本当は袖を通したいのだが、彼の突き刺さるような視線が許してくれそうにないと、本能的に悟る。

私が口を噤むと、家光様は一度無表情になった後にっこりと微笑みかけてきた。

その落差に、全身の肌がぞくりと粟立つ。

「俺がしたいから、そうするの。お万は俺のものなんだから、俺が世話をするのも、俺の部屋で過ごすのも、俺の着物を着るのも当然だろ?」

無邪気に言い放つ家光様に、私は言葉を失う。

それではまるで、私が彼の愛玩動物か何かみたいではないか。

そして、そのことに本人が気がついていない様子が、一層不気味に映る。

家光様の言い分をそのまま鵜呑みにするならば、ここは中奥にある彼の自室で私を自由にさせる気は一切ないということか。

家光様は私から目を逸らして長持が置いてあるところへ向かうと、その中から青鈍色の着流しを一着取り出す。

こちらへ戻ってくると、その着流しを私の肩に羽織らせて満足げに頷く。

「うん、似合ってるよ。お万」

一体、この状況は何なのだ。

悪夢を見ている心地でこちらを見つめてくる彼の顔を茫然と眺めていると、簾越しに控えめに年嵩(としかさ)の女中の声がかかった。

「上様、お湯と手拭いをお持ち致しました」

「ああ、ご苦労。そこに置いておいてくれ」

私に話しかける時とは打って変わり、冷ややかな声音で返答をすれば、そそくさと人の気配が去っていく。

家光様はお湯が張ってあるたらいと手拭いを取りに行こうとしたが、そういえばといった調子で畳の上に置いてあった盆から湯呑みを取り、私に手渡す。

「ごめんな、つい忘れてた」

「い、いえ……」

喉の渇きよりも自分が置かれた異常な状況の方に気が取られていたので、別にどうしても水が欲しかったわけではないのだが、受け取らなければどうなるのか分かったものではない。

私は湯呑みを受け取ると、そのまま口に水を含む。

冷たい水が喉を滑り落ちていく感覚は、思いの外気持ちがいい。

一気に水を飲み干して少しだけ気持ちが落ち着いたのも束の間、家光様は私から自分の着流しを剥ぐと、お湯で絞った手拭いで肌を拭き始めた。

まるで、親に面倒を看てもらわなければ何もできない幼子か、愛玩動物にでもなったかのような気分だ。

持ち前の気の強さはどこへ行ったのか、下手に彼を刺激するのが恐ろしく、私は大人しくされるがままになっていた。
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