トラワレビト〜咲き初めの花 媚薬の蝶〜

□第二十二章 『今宵限りの』
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吉原を訪れてから、数日後。

てっきり、すぐにでも引き取るものだとばかり思っていたが、十六夜は未だ私の元にいる。

今は猫の姿になり、長持の陰で昼寝をしている彼の姿をぼんやりと見つめる。

もしかして夕月は、十六夜への説得に失敗してしまったのだろうか。

そう考えが脳裏に浮かんだものの、夕月の意志は確固たるものに見受けられた。

彼も現状がいいものだとは考えていないのだ。

だから、一度や二度の失敗で諦めるとは思えない。

となると、何か考えがあるのだろうか。

もしそうならば、下手に動かない方がいいのだが、その考えとやらがあるとするのならば、何なのか気になる。

悶々と思考の渦に呑み込まれそうになっている自分に気がつき、我に返るとぶんぶんと首を横に振る。

こうして、物思いに耽っていても仕方がない。

こうなったら身体でも動かし、気分転換をしよう。

「……正盛のところにでも、行ってみようかしら」

正盛には、仮病期間の際にも度々お世話になった。

その一つとして、昼間は動けない私に夜中に自分のところの道場を使わせてくれたのだ。

そして、こうやって動けるようになった今でも快く使わせてくれている。

正盛の屋敷の奉公人には彼の方から話を通しておいたくれたおかげで、本人が留守にしている時も温かく迎えてくれる。

家光様と疎遠になってしまった今でも、様々な形で尽くしてくれる正盛には頭が上がりそうにもない。

心の中で、本人を前にした時に幾度となくした感謝の言葉を改めて述べ、お忍び用の着物一式が入っている長持へと手を伸ばす。

この場に十六夜がいるが、彼は昼寝をしているのでここで着替えても問題はないだろう。

必要なものを取り出し、提帯(さげおび)をしゅるりと解いて帷子を脱ぎ去った、その時。

「お万ー、遊びにきた……よ……」

背後から聞こえてきた、いつもの調子で簾をくぐってやって来た忠長様の声が、不自然に途切れる。

私はといえば、身体が凍りついてしまったかのように硬直した。

今、身に着けているのは薄手の白い下着だけだ。

どのくらい薄いのかというと、身体の線がくっきりと浮き出てしまいそうなくらい薄い。

私はぎこちない動きで、おそるおそる後ろを振り返る。

すると、完全に言葉を失ってしまった様子の彼と目が合ってしまった。

衝撃のあまり、手に持っていた脱いだばかりの帷子が、ぱさりと足元に落ちる。

故意ではない。

そう頭の中で冷静な自分が囁きかけてくるが、感情的なもう一人の自分はわあわあと喚き散らす。

奇妙な沈黙が私たちの間に横たわる中、緩慢とした動作で頭を下げる。

「……見苦しいものをお見せしてしまい、大変申し訳ありませんでした。ご迷惑をおかけしますが、外でお待ち頂けないでしょうか?」

人間、強過ぎる衝撃を受けるとかえって冷静になってしまうらしい。

顔を上げると、淡々と告げられた言葉に忠長様はゆっくりと頷く。

「う、うん……。待って、る……」

女人の裸などとうに見慣れているだろうに、私の下着姿を目の当たりにしただけで、どうして忠長様はこんなにも動揺しているのか。

驚くほど茫然自失とした体(てい)で彼はこちらに背を向け、もう一度簾をくぐって縁側へと出た。

忠長様の後ろ姿を見届けた後、私は黙々と手を動かす。

彼は何も悪くない。

ただ間が悪かっただけだ。

それに、忠長様はむしろ被害者だ。

見たくもないものを視界に収めてしまったのだから、きっと不快な思いをさせてしまっただろう。

だが、いくら理性的に言葉を並べようとも、あんな姿を見られてしまったという深い悲しみと虚無感は、そう簡単には消えてくれない。

私は自覚がないだけで、もしかしてかなり運が悪いのだろうか。

虚ろな気持ちで着替えを終え、縁側でこちらに背を向けて立っている彼に、そっと声をかける。

「……忠長様、もう大丈夫ですよ。どうぞ、お入りになってください」

「……お邪魔します」

常ならば、こんな状況になったら即座に私のことをからかってくるだろうに、今回ばかりは不意打ちだったからか、妙に大人しい。

部屋の中へ招き入れると、忠長様は腰を下ろすや否や、畳の上に手をついていきなり頭を下げた。

これは異常事態だ。

思わず、心の中でそう呟く。

思考が状況についていけていない私に構わず、彼は口を開く。

「……先程は、大変申し訳ございませんでした。以後、気をつけます」

忠長様のやけに殊勝な言葉に正気を取り戻し、彼の姿を凝然(ぎょうぜん)と見つめる。

まさか、あの忠長様が私に向かって土下座して謝罪するなんて。

信じられない光景を目の前にして、絶句してしまう。

しかし、そうしている間に先程から現在に至るまでに起こった出来事が、ゆっくりと明瞭に頭の中に蘇ってくる。

同時に衝撃から立ち直り、やがてふつふつと怒りと羞恥が込み上げてくる。

部屋に入室する前に、何故一言声をかけてくれなかったのか。

我が物顔で他人の部屋に出入りするなど、無礼極まりない。

そして何より、どうして私はすぐにはこんな激情が胸中で燻(くすぶ)らなかったのか。

今にも爆発しそうな感情だけではなく、疑問までもが頭の中を占め、発狂してしまいそうな心地だ。

私は少しでも平静を取り戻そうと深呼吸をし、やや落ち着いてから口火を切る。

「……忠長様、顔を上げてください」

私の静かな言葉に忠長様がおずおずと顔を上げた直後、前もって握り締めておいた拳で彼の頬を殴る。

今回は手加減をする余裕があったので、以前の攻撃より痛くなかったとは思うが、普通の女人と比べたら結構な威力だっただろう。

その証拠に、忠長様は驚きに目を見張りながらも、痛みに顔を歪めている。

「ちょっ、お万!? 許してくれそうな雰囲気だったのに、何でいきなり殴るの!?」

でも、こちらに食ってかかる威勢は残っていたらしい。

私はそんな彼に小さく嘆息し、ぼそりと言葉を紡ぐ。

「……これで、相殺して差し上げます」

私の言葉が予想外のものだったのか、彼は殴られた頬を押さえつつ目を丸くする。

元々、長い時間負の感情を抱き続けるのは苦手だ。

罪悪感に苛まれている時やどうしても納得ができない時は別だが、今回は完全に事故だったのだ。

鉄拳制裁を加えたのだから、もうなかったことにしてしまおう。

「これで、おあいこです。文句がないのでしたら、よければ一緒に出かけませんか?」
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