虎徹の左手薬指に光るシルバーのリング。それが愛した妻との愛の証であることなど、バーナビーも痛い程に理解していた。虎徹のそこにあるのが最早当たり前となったそのシルバーリングを見る度に、バーナビーは思う。









――この人の一番になれるのは、一体いつになるのだろう、と。










妻を亡くして尚、虎徹の心の隙間を余すことなく埋めているのはその妻と、忘れ形見である娘の存在だ。本来なら、バーナビーが入れる場所なんあるはずが無いのに、バーナビーは今、虎徹の隣に居る。仕事上の相棒としてではなく、恋人として…だ。








いつもいつも持ち前の図々しさでバーナビーの心に触れ、解きほぐした虎徹。最初は煩わしいと思っていたそれが心地良いと思い始めたのはいつからだったか。嫌悪感が恋心に変わったのはいつからだったか。記憶力には自信があるバーナビーではあったけれど、自身の感情の変化のきっかけなど全く心当たりが無かった。





虎徹に恋心を抱き、それと同時に自分は案外直情径行にあるのを自覚したバーナビーは、駆け引きも何も無く、ある日虎徹に自身の想いをはっきりと告げた。男同士だとかヒーローとしての立場とか世間体だとか、この時のバーナビーの頭には一切そんな危惧は無かった。




勿論虎徹は初め、そんなバーナビーの言葉を「バニーちゃんにしては珍しい冗談だな」と受け流し笑ったが、バーナビーの目が冗談ではないと如実に語っているのを見るや否や、すぐにその笑いは消失した。冗談じゃないと分かってくれたのなら、と畳み掛けるように虎徹に愛の言葉を囁いた。本気であるという証拠として虎徹に口付けをもした。触れるだけの口付けを何度も送り、唇を離す度に「好きです」「好きなんです」「あなたを愛しているんです」「虎徹さん」と切実な言葉を口にして。






この気持ちを受け入れてほしいと思っていた。しかしそんなことは無理だろうとも、バーナビーはまた思っていた。虎徹の心は今は亡き最愛の妻のモノであり、最愛の娘のモノだ。バーナビーのモノには決してならない――そう決めつけていた。





だが、その思い込みは適当では無かった。バーナビーの予想を裏切り、虎徹は言った。





「俺はまだ、誰かを愛して良いのか…?」





琥珀の瞳が涙で濡れていた。バーナビーの手が触れた体が小刻みに震えている。その言葉を聞き、涙を見、バーナビーは悟った。虎徹もまた、大切な人を作ることに躊躇いを持っていたのだ。大切な人を失う悲しみを、虎徹も知っている。バーナビーが今までそうしてきたように、虎徹もまた、妻と娘以外に大切な人を作らなかった。喪失感と絶望を身を持って知っているから、絶妙なラインを引いて他人と接してきた。








恋を抱かせぬように。








愛を芽生えさせぬように。










だけど虎徹は、バーナビーの愛情を知り、自身の気持ちの奥に隠されていた愛情を知った。妻と娘以外に明け渡すことなんてないだろうと思っていた愛を、バーナビーに向けていた。そう自覚したが故の――「愛して良いのか」だった。





「俺は、お前を、愛して良いのか…?」
「…勿論ですよ。寧ろ、愛してください。目一杯、ね」





堪えきれず零れ落ちてきた雫ごと、バーナビーは虎徹を抱き締めた。子供のように泣き喚くのではなく、ただ肩を震わせながら嗚咽を堪え、涙を流し続ける虎徹を、バーナビーは強く強く掻き抱いた。






虎徹は、世間一般的な同年代達と違って引き締まった体をしているから、抱いた肩も腰も、この年代にしては細い方ではないかと、この時バーナビーは改めて思った。いつもトレーニングの後のシャワー室なんかで目にしていたが、触れてみて改めて実感したのである。



こんな体に、虎徹は全てを背負い込んできたのだ。寂しさも、苦しさも、孤独も、虚勢も。バーナビーが背負い込んできたモノとどちらが重いのか――そんなこと、比べること自体が愚かだと言える。良いじゃないか、背負ってきたモノの軽重なんて。お互いに、そんなことを気にしてるんじゃない。










大事なのは――『今』だ。









そうして、バーナビーと虎徹は恋人同士になった。しかし最初に言ったように、虎徹が填め続けるシルバーリングが、バーナビーの心を重く沈ませているのは確かだった。どれだけの時間を共にしても、何度唇を合わせても、幾度身体を重ねても、そのシルバーリングによってバーナビーが捧げた愛が相殺されているような気がしてならないのだ。






どれだけ虎徹を愛そうと、彼の心に居続ける妻の幻影が、それを奪っていくような、横取りしていくような、そんな小さな蟠りが、バーナビーの中にあった。






だからと言って虎徹への愛情が稀薄になることは無い。寧ろ増幅していっている。この指輪の存在を一時でも頭から消せるように、深く深く、虎徹を愛することを決めているバーナビー。




「この指輪を外してほしい、なんて我が儘は、言いませんよ」
「バニー…」




チュッ、とシルバーリングのすぐ側に唇を寄せるバーナビー。そして小さく吸い上げ、か細く、目を凝らさねば分からない程に薄い鬱血痕を残した。その刺激にピクリと体を震わせた虎徹であったけど、バーナビーのその行為を咎めることは無かった。





シルバーリングの、ほぼ真上の位置につけられたキスマークを、バーナビーは愛おしそうに見つめていた。既に填める場所を埋められているが故に指輪を送れないバーナビーは、時折こうして虎徹の薬指にキスマークを残す。それが自分達の恋愛の証になるならば、と虎徹も受け入れてくれたこの行為。



虎徹の中に、指輪を外せない後ろめたさは確かにあった。しかしそれを感じても、虎徹はこれを外すことをしなかった。それはやはり愛する妻のことを簡単に切り捨てられないからという理由からで、バーナビーだってそれは承知の上だった。それでも、バーナビーは不安だった。だから、キスマークを残すのだ。





「あなたの中で、奥さんの存在が大きいのは分かってます。それでも僕を愛してくれたことが、僕は嬉しいんです」




恭しく手の甲に口付けながら、バーナビーは言う。





「だから、指輪を外してほしいとは乞いません。奥さんや楓ちゃん以上に僕を愛してほしいとは言いません。思いますが、言葉にはしません。まぁその妥協の分、行動では示していただきたいですね」
「今も充分、示してるじゃねぇか」
「あいにく、僕は貪欲なんです。まだまだ足りないくらいですよ」
「…しょうがねぇなぁ、バニーちゃんは」




バーナビーの頭部を引き寄せ、程良く潤ったその唇に自身のそれを押し付けながら、虎徹は笑顔だった。嫉妬をおっぴろげにしているバーナビーを可愛いと思っているのか、ただ単純に真っ直ぐに自分を愛してくれているのが嬉しいのか、深部は分からないが、虎徹は笑顔だった。




年上の威厳としてか、キスの主導権を握るのは主に虎徹である。容易に舌を侵入させ、バーナビーの舌を捕まえ、吸って絡めて甘く噛んで、深い口付けを堪能する。…まぁ虎徹が主導権を握れるのは最初だけで、すぐにバーナビーに立場を逆転されて息も出来ぬ程に蹂躙されるのだけど。




「〜〜〜ぷはっ」
「は…おじさん、色気が無いです」
「うるせぇ」




毎度のことながらバーナビーに逆転されたのが悔しいらしく、虎徹はふいっと顔を逸らした。そんなことしても赤くなった頬や耳は隠せないのだが。寧ろバーナビーの眼前に晒してしまっているのだが。





「好きですよ虎徹さん。愛してます、本当に」




恥ずかしげも無くそう囁き、晒された赤い頬にチュッと小さなキスを送る。その言葉も行為も、虎徹の心臓を不用意に高鳴らせていることを、果たしてバーナビーは知っているのだろうか。




「奥さんとの思い出ごと、僕はあなたを愛しましょう。僕があなたの中で一番になるまで、ずっとずっと変わらず、あなたを愛し続けましょう」




虎徹の左手にそっと己の手を重ね、またしても恥ずかしげも無くそんなことを言い放ったバーナビーを、虎徹は直視出来なかった。照れ臭いからだ。三十路過ぎのおじさんが何をバカな、と思うかもしれないが、こんなに真っ直ぐな愛を囁かれてしまえば、誰でも照れ臭くなって顔を合わせられないだろう。



バーナビーの細い指がシルバーリングをそっとなぞった。形を確かめるように往復するバーナビーの指。この指輪ごと、バーナビーは虎徹を愛すると宣言したのだ。それを慈しむのも、当然のことだった。





「……バニーちゃんって、たまにマジで恥ずかしいよな」
「なにがです?」
「無自覚かこのぉ…」
「なにぶつくさ言ってるんですか。それよりいい加減こっち向いてください。キス出来ないじゃないですか」
「まだすんのかよ! もう気は済んだろ!?」
「ご冗談を」




あれぐらいじゃまだまだ足りませんよ、と言ってバーナビーは虎徹を無理矢理自分の方へ向かせ、本日幾度目か分からない口付けで、虎徹の唇を塞いだのだった。






























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特別の人でなくなるまで
Kra/雨音はショパンの調べ

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