※二年になる前の話









新学期まで残すところあと五日。練習が休みの今日、オレは伊月と一緒に電車に揺られているところだった。その理由は、端的に言えば[桜を見るため]だ。…は? 端的すぎる? 知るか。





誠凜高校の最寄り駅から六つ程先の、普段なら絶対に立ち寄らないような駅。そこから徒歩十五分ぐらい歩いた所にある堤防に、一キロは余裕であるだろうと言われる桜並木があるのだとクラスメートから聞き及んだのは春休みに入る前。それを伊月に話したのが昨日のことだった。話すまでに間が空いたのは別にもったいぶった訳じゃなく、忘れてただけって話。多分伊月の「花見がしたい」の一言が無けりゃ、思い出すことも無かったかもしれない。





何気ない一言に感化され、記憶の引き出しから顔を覗かせたそのささやかな情報に、伊月は面白いぐらいに食い付いた。「見たい見たい! 行こうよ日向!」と子供のように目をキラッキラさせて言うもんだから、断る、なんて選択肢は一瞬にしてオレの中から霧散していった。








で、現在。未見の地に足を踏み入れたオレと伊月は、駅員さんに聞いた道順に従い、件の堤防を目指しているところだった。



都内から少し距離が開いただけで、広がる景色は一気に様変わりする。高いビルなんか目を凝らさなければ見えないような場所にしか無く、家もポツポツとしか建っていない。人工物よりも自然の方が多そうなこの一帯では、漂う雰囲気もどことなく柔らかく感じる。春特有の暖かく軽い空気も相俟って、自分の体からも余分な力が抜けていく感じがした。






「もうすっかり春だなー…」





そう呟く伊月の声もいつもより軽い。それだけリラックス出来ている証拠なんだろう。珍しくダジャレの一つも飛び出さない辺り、伊月の中のなにかはふにゃっふにゃになっちまってるに違いない。





建物も疎らなここはなんとなく空気も澄んでいるように感じ、歩きながら深呼吸してみると微かに水の匂いがした。川が近いんだろう。ということは、目的地である堤防もすぐ側にあるということか。





「あ、日向、あれじゃない?」





案の定、角を曲がってすぐに自然をたっぷり蓄えた防波堤が視界に入った。駅員さんの道案内はとても正確だった。有り難いことに。




「行こうよ日向!」
「んな慌てなくても桜は逃げねぇっつの」




ここまで来れば桜はもう目と鼻の先だ。逸る気持ちを抑えながら堤防のゆるやかな坂を上る。伊月なんかオレを置いてさっさと坂を上りきっちまってて、「早く早く!」とまるで幼少期に戻ったかのように満面の笑みを浮かべてしきりに手招いてオレを急かす。ちょっと落ち着けよと苦笑しつつ、少し歩調を早めて伊月の元へ向かう。



もともと大した距離じゃなかった坂を悠々と上りきり、伊月の隣に並ぶ。





「ほら、日向アレ!」
「あ? ……おー」





伊月の指差す先。河を挟んだ向こう岸。その畔を染め上げる、色鮮やかでとても美しいピンク色。それが向こう側の景色を一直線に寸断しているのだ。そのピンク色の果てを見るには、顔を目一杯横に逸らさなきゃならない程だ。まさに絶景である。




「すっげぇ…」





思わず洩れた感嘆の言葉。伊月も同じ思いらしく、「すごいよな」と同意の言葉を呟いた。








すぐ近くに架かっていた橋を足早に渡り、桜並木の真下までやってきた。まだ満開とは言えねぇみたいで、見た限り八分咲きぐらいか。でもこれだけたくさんの桜が並んでいたら、満開じゃなくても十分に美しく見えた。こういうのを質より量っつーのか? …や、なんか違うような気がする。





俺達と同じように桜を見に来た人達は疎らながら居たが、さすがに宴会みたいに騒いでる人は居なかった。都会の喧騒から切り離された桜の下、俺達はさっきとは対照的に歩調を緩め、ゆっくりとした足取りで桜の下を歩いた。暖かく優しい風に吹かれて散っていくピンクの花びらに、思わずうっとりしちまって吐息が漏れる。




「きれーだなー」
「うん、ホントに綺麗」
「なんか、桜には悪いけど、綺麗以外の言葉が浮かばねぇ」
「あはは、言えてる」





一本だけでも十分目を引く桜なのに、それが数え切れない程に並んでいるからなんだか圧倒されてしまい、口をついて出るのはありふれた形容詞だけ。己の語彙の少なさがここで姿を現した、というわけだ。




がむしゃらにバスケばかりやっていたから、こうした季節の風物詩にうつつを抜かせる機会を悉く逃していた。秋の紅葉とか、冬の雪景色とか。だから、この美しすぎる桜達は、今日までの俺達の努力を労ってくれているような気がしてならない。その美しさを持って、俺達の荒れた心を癒やしてくれているかのような――






「って、思うんだけど」
「日向ってたまにすごく臭いこと言うよね」
「ぁあ!? どういうことだ伊月!」
「べっつにー?」





クスクス笑いながら伊月は一本の桜の木の下に座り込んだ。どうやら真下から桜を眺めることにしたらしい。


ポンポン、と無言で隣を叩き、俺に隣に座るように促す伊月。俺はそれに大人しく従い、伊月と共に真下からのアングルを楽しんだ。







そよそよと柔らかい風が吹き抜ける。それに煽られた桜の花弁はゆっくりと地に落ちていく。目の前をその花弁が横切る度、伊月は両手を伸ばしてそれを捕まえようと躍起になっている。しかしあまり体制を動かさないために、花弁は嘲笑うかのように伊月の指の隙間をすり抜けて地に着地してしまう。





「うー…捕まんない」
「無理に捕まえなくていいんじゃねぇ?」
「でもさ、桜の花びらを捕まえたら願いが叶うって、聞いたことない?」
「あー…なんか聞いたような聞かないような…」
「まぁ願い有る無しに関係無く、ただ捕まえたいだけなんだけどさ」





伊月は微苦笑を浮かべながらそう言って、また花弁を捕まえることに集中し始めた。飽きもせずそれを繰り返す伊月を、俺は眺めていた。鷹の目を使えば楽なんじゃないかと思ったが、不規則に揺られて落ちる花弁に対応出来ないのか、さっきから空振りばかり。一向に捕まえられる気配が無い。




と、そこで俺は気が付いた。伊月の漆塗りのような艶やかな黒髪に、桜の花弁が一枚、くっついていることに。伊月はそのことに気付いていないようだ。





「ぷっ…」
「ん? どしたの? 日向」
「はは…いや、花びら捕まえらんねぇくせに、逆にお前が捕まってんじゃん」





動くなよ、と念を押してから髪に付いていた花弁を取ってやった。伊月の黒髪にピンクの花弁はよく映えていたけど、伊月には余計なオプションなんて必要ないから。


ほら、と取った見せてやると、伊月の頬が桜と同じ色に染まる。花びらに捕まったっつー俺の言葉の意味が分かったんだろう。





「あんな苦労してたくせにな」
「う、うるさいな…そういう時もあるよ」
「言い訳になってねぇっつの」





クスクス笑いながら取った花弁を伊月の唇に押し付ける。ふに、と柔らかい感触が花弁越しに伝わってきた。






それを感じた瞬間、あ、キスしたいな――って思って。




その数瞬後には、俺は花弁を捨て去り、伊月の唇を塞いでいた。





「んっ…!」





いくら静かだとは言ってもここは外だし、少ないながらも人は居るし、誰かに見られるかも…とか考えたけど、どうせそう滅多に来るところじゃねぇしーと早々に考えを改め、塞いだ伊月の唇をとことん堪能することとした。





舌先で唇をつつき、開けるよう促す。熱い吐息と共に出来た隙間に、俺は迷いなく舌を滑り込ませた。辿り着いた口腔内で伊月の舌を絡め取り、より深い口付けを施していく。伊月も抵抗することなく、積極的に応えてくれる。





ピチャ、くちゅ、と唾液が混ざり合う音が耳をつく。飲み込みきれなかったそれが伊月の顎を伝っていく。ギュッと目を閉じ、強くオレの服を握って、顔を赤く染めながら、それでも伊月はオレのキスを拒まない。どころか、自分からも積極的に舌を絡ませてくれて、キスに没頭している。恥ずかしがり屋なわりに、伊月は案外キスが好きらしいというのを、オレが知ったのは付き合い始めて少ししてからだったか。




「は……っ…ふぁ…」
「ん…はぁ…」




思う存分キスを堪能して、貪り続けていた唇を解放してやった。熱く甘い吐息にオレの理性がグラグラと揺さぶられるが、そこは理性でなんとか押し止める。ここで押し倒したら絶対殺される(ヘタレ)。




「も…日向……いきなりは、反則…」





荒くなった息を調えながら伊月が恨みがましくそう言ってきたが、涙目で睨まれても怖くもなんともない。寧ろその涙目に欲情しちまう。





「良いだろ別に。したくなったんだからよ」
「はぁ…せっかく桜見に来てるのにさ。日向ってば花より団子?」
「そうだな。桜より伊月…かな?」
「…ばーか」





そう答えた伊月の頬は、またほんのり桜色に染まっていった。まるで果実のようなその彩り。立ち並んで咲き誇っているこの桜達には悪いけど、今の伊月の方が何倍も美麗に思える。惚れた欲目もあるんだろうけど。




チュッと鼻先に小さなキスを落として、伊月の手を引いて立ち上がる。「帰るか」と促し、そのままの状態で俺達は歩き出した。周りの人達は桜を見ることに夢中なようで、手を繋いでる俺達に気付くことは無かった。





「ちょ、日向っ」
「なんだよ」
「人がいるっ」
「誰も見てねぇから」
「そういう問題じゃ、ない…」
「じゃあどういう問題なんだ?」
「うぅ…」





伊月が答えられないのを分かってて聞き返すオレは、相当意地が悪いと思う。自覚はあるが、オレの言葉にいちいち反応して赤くなったり青くする伊月が可愛くて、ついつい意地悪をしちまう。





伊月がこうやって、公衆の場で恋人らしいことをするのが恥ずかしくて苦手なのは知ってる。けど、さっきキスは拒まなかったんだし、手を繋ぐのなんかキスに比べりゃあ可愛いモンだろ。そう結論付けて、オレは一層強く伊月の手を握った。





「早く帰ろうぜ」
「日向…?」
「早く帰って、お前を抱きたい」
「っ…バカ…!」
















花より団子
(来年も来れると良いな)
(そうだね。来年また、一緒に来よう)






桜の季節はとっくに終わってますが見逃してください← いや、俺が今年も花見に行けなかったので「こうなったら誰かに代わりに行ってもらおう」と浅はかな思い付きでこうなったわけですよ。大幅に遅刻したけど満足(^ω^)


作中で出てきた桜並木は俺の地元に実際にあります。毎年あの桜並木の下を歩くのが好きなのですが、ここ二年程実家帰る時にモノレールから見下ろす程度しか出来ておらず…悲しい限りです。来年こそは歩きたいです!


ちなみに下のは一昨年撮った、反対側の道から撮った写真。日向達が最初に見た光景のつもりです↓








栞葉 朱那

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