「あ、やべ」

そう思ったときにはもう遅く、点灯した赤いボタンは人差し指によってその光を失った。
本当はあと数センチ右隣にあるボタンを押すはずだった指先は、
虎徹の心の動きに伴ってうな垂れているように曲がっていく。
コーヒーの隣がなんでジュースなんだよ、と
わけのわからない怒りがもやもやと湧き上がる。
自動販売機の中央には小さな小窓がついていて、
その上に出来上がりまでの時間を図るライトが、
まるで仲間を集めていくように一つづつ発光していく。
まもなくして出来上がりという文字が光って、
仕方なしに紙コップを小窓から取り出した。
中には求めていた熱いコーヒーなどではなく、
冷たい氷と淡いイエローのジュースがなみなみと注がれていた。
うらめしくその液体を見て、虎徹は肩をおとしため息をついた。



オフィスの中の空気がいたたまれなくて気分転換にコーヒーを買いに来たらこの様だ。
あれもこれも全部あいつのせいだ!虎徹は顔をしかめる。










三日前、珍しく相棒と二人して残業をした。
おばちゃんは定時になると早々と帰宅していった。
金曜の夕方に放映しているドラマをとっても楽しみにしていることを虎徹は知っている。
虎徹のデスクには溜まりにたまった始末書うんぬんの書類が山積みになっていて
(しかもその半分以上は今週末が期限だ)
到底夕方までに片付くはずもなかった。
バーナビーは、仕事を前倒しで来週の分まで片づけてしまうらしい。
つくづく真面目な奴だ、と虎徹は感心半分心配半分で
相棒の美しい横顔を眺めて思った。



オフィスの中で二人は席も隣だから、
ひと段落ついたときに虎徹は何の気なしに話しかける。
いつもそうするように、何気なくだ。

「なぁ、バニーちゃん働きすぎじゃね?この間も休日出勤したんだろ?」
バーナビーは視線を虎徹に投げたが、それも一瞬で、
仕事をやめようとはしない。
その姿勢には、口を動かすより手を動かせと無言で訴える様子がうかがえた。
 
「仕事をためたくないんです。あなたみたいに切羽詰まって残業続きとか嫌なんで。
それとバニーじゃありません、バーナビーです」
視線はパソコンの画面に向かったまま、バーナビーが答えた。
キーボードを叩く指先がさざ波のように滑らかに文字を出力しながら、
まるで踊っているようにリズミカルだ。

「にしてもよぉ、休みの日くらいデートでもいって、パアッと遊んだ方がいいって!」
「今はそんな相手いません」
「またまたぁ!お前とデートしたい子なんて死ぬほどいるだろ?」
「別にしたくありません。興味ないんで」
どうでもいい、とその後から聞こえてきそうなくらい平坦な口調で
バーナビーは言い放った。

しかしそんな彼を前にしても、虎徹はお門違いの事を考えていた。
バーナビーがモテるのは当たり前だ。
第一顔がいいし、ヒーローとして知名度も才能もある。
でもいい女性と出会う場所がないのかもしれない。

「あ、そーだ!アニエスに聞いてみてやるよ!あいつ顔広いし絶対いい子を」

「いりません」
「お前がいくらモテても出会う場所がないと意味ないよな、お前タイプはどんなかん」
「だからいりませんて」

「なんでだよ、アイツはなかなか信用できるぞ。バニーは可愛い系かそれとも美人け」

「だったら、あなたがしてください」
矢次早に質問する虎徹を、無理やりさえぎる様に降ってきた硬い声に、
虎徹は口をつぐんだ。


「え?」
「あなたが、してください僕と、デート」
キーボードを打ち鳴らす音は、気づけば止まっていた。


「は?え?バニーちゃん、デートは好きな子とするもんなんだぞ」

ずっと正面を向いていたバーナビーの体が、回された椅子にのって虎徹の方を向く。
いぬかれた視線は、いつもより力を宿しているようで虎徹は固まった。

「知っています。だからあなたがしてくださいよ。
いい大人なんですから
皆まで言わなくても意味わかりますよね、おじさん?」
バーナビーはそういって口端を片側だけ釣り上げた。


その表情に虎徹は息をのんだ。
自分に向かって笑うことなんて、
今まであっただろうか。いやない。
言葉も表情も、今バーナビーのすべてが
自分を隅々まで驚かせる。


何も言えずに固まったままの虎徹の隙をついて、
バーナビーは身を乗り出し、腕をつかんだ。

次の瞬間、腕を強くひかれ、
いきなり重なった唇に虎徹は目を見開いた。
触れ合った衝撃で、彼の金色の髪が頬に触れる。
それは打ち寄せる波のようにやってきて、そして引いていった。
一瞬のキスの衝撃は、虎徹の細胞一つ一つを脅かしはじけさせる。
体内を雑巾のように絞られていくような感覚は、
今まで自分なりに構築していた道徳やルールや順番や線引きを、
びしゃびしゃと零し落としていく。



ストン、と自分の椅子にまっすぐ座りなおしたバーナビーは
何事もなかったかのように、またキーボードを打ち始めた。
虎徹も、いきなりの事で全く思考が追いつかず、
無言で椅子を回し正面を向きなおして書類に目を通す。

しかしさっきまで読めていたスペルが、バラバラにほどけていくように感じる。
黒くプリントされた文字がただの糸になり、もつれ、くしゃくしゃになる。
そして一文字たりとも理解することが出来なくなっていく。
諦めて、書類を力なくデスクに置き、無言のまま帰ろうとした虎徹にバーナビーが、一言。

「僕は、逃がしませんから。あなたの事」






それからはわかりやすい。
意味深な捨て台詞は、バーナビーの本気さを確実に後押ししていた。
どうすればいいのか途方に暮れる虎徹の脳みそはショートダウンし、
キャパシティは完璧にオーバーした。
頭の中は濃い霧に包まれた様にぼんやりとして、
日常的な当たり前の行動がすべてぎこちなくなった。
自販機のボタンだって、押し間違えるだろう?





虎徹はやけになって、コップに入ったそのジュースをぐっと煽った。
ゴクリと大きく喉を鳴らし、体内に取り込む。
薄いイエローの液体の味はミックスジュースだった。

「あれ?」
そして、虎徹はその意外性に驚いてしまう。
予想をはるかに超えて、この飲み物は美味しく懐かしかった。
長い間忘れていた味は
虎徹の中に存在していた何かを揺さぶり起こしているように感じられた。
それは、土の中で冬を超え春になっても気がつかないクマを、
優しく起こすことに似ていた。
太陽が温かい日差しを伴って、
今だ、今だと合図を送るのだ。


まじまじとコップの中を眺める。
鮮やかな赤黄橙に身を染めた果物たちが、
自分の美味しい部分もあまり美味しくない部分も認め合って互いに身を寄せ合い、
同じタイミングで個体から液体に形状を変えられていく様子を思い浮かべた。

さっきまで別の個体として目の前にいた果物が、
次の瞬間にはもう自分の一部になっているとは、
まったく不思議なものだろう。
しかしこのすっきりした甘さやのど越しは、
自分一人では出すことのできなかったもののはずだ。
だから手と手を取り合うように仲良く混ざり合い、舌を喜ばせる。




虎徹はバーナビーの顔を思い出した。
そして至近距離に迫った長い睫と、
柔らかい唇の感触を思い出した。

付き合うってどんな感じだったかな、と思う。
デートをして、夜空の星のように数えきれない話をして、
笑いあって、時には喧嘩して、
そしてきっと体温を交換するように抱きしめあって、
キスをしてくっついて寝るんだ。

そのどれも、しっくりこない。
自分とバーナビーがするなんてまったくしっくりこない。

でも、意外にもそれがよくなるかもしれない。
コーヒーと間違えて選んでしまったこのミックスジュースのように、
口にしてみると意外と甘く懐かしく、
予想以上に美味しいと思うかもしれない。

コップにわずかばかり残ったジュースを全部飲み干して、
虎徹は氷を口に含みがりがりと噛んだ。
冷たさは歯の神経をたどり、
頭をちくちくと刺激する。
その鈍い痛みが、
少しづつぼんやりとしていた頭を覚醒させていく。
宙に浮いていた足を、
しっかりと地につけてくれる。

虎徹は紙コップをくしゃくしゃに握って捨てた。
そして先ほどとは違った足並みで
自分のデスクに戻るため、踵を返す。


二人がミックスジュースで、そしておれが林檎だとしたら、
お前はオレンジでもマンゴーでもバナナでもアボガドでもいい。
どの果物になってもきっと、美味しくなるに違いない。
なぜだかそんな根拠のない自信が、虎徹には芽生えていた。







そして虎徹の勘はなぜだかよくあたるのだ。






























END

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