(※一部抜粋)





午後の診療の合間に、燐の姿を探した。庭でクロと遊ぶ姿はやはり少し元気が無いように見える。
二人の仲は燐が最初にここに来てからずっとギクシャクしたままだった。
食事は毎回半分も取っていないし、一緒に風呂に入ってもはしゃぐことは無い。眠る場所は居間のソファーがいいと譲らないし、必要以上の会話もしていない。
悪魔嫌いで子供の面倒の見方などわからない雪男にとっては好都合のはずだった。思いもよらなかったが、気になって仕方がないのだ。
四日が経ち、この状態が続いているのは好ましくない。体調も心配だし、何よりここに居続けることは燐にとって辛いことだろう。長友さんには悪いけれど、任務を代ってもらえる誰かを探してもらう他ないと思う。

「はぁ」

診察中にも関わらず無意識に溜息が漏れてしまって、正面の患者の顔をちらりと伺った。

「おとなげない」

 採血を終えて止血の為のガーゼを貼る雪男に小さな女の子は眉を顰めている。少しばかり怒っているらしい。

「きみには関係ないでしょう?」

 毎日ここに来る患者もいる中、真実に近い噂が広がるのにそれほど時間は掛らない。燐がここしばらく滞在しているのは誰もが周知の事実だった。あまり仲良く出来ていない事も、見ればわかる。でもそれは患者には関係の無い事だ。

「笑ってあげるだけでいいのに」
「はい、おしまい。次は来週の水曜日に来てください」

 にこりといつもの笑顔で予定を告げると、今度は桃色の小さな頬がぷぅと膨れた。

「りんくん、あんなにいいこなのに」
「でも悪魔ですよ」
「そういうせんせいはきらい」
「おや、この前は先生は格好良いし優しいから大好きって言っていたのに」
「りんくんにやさしくないせんせいはきらいなの!」

 最終的にはこうして雪男が嫌われる。あまり納得は出来ていない。
 あの日から着実に患者の肩からのお叱りや忠告、提案を多く受けるようになった。それは確かに毎日庭で遊んでいる小さな悪魔が原因だ。
 皆が口を合わせて「もっと優しくしてあげなさい」「話くらい聞いてあげなさい」「あんなに小さい子に対して大人げが無い」とかなんとか。いつの間にか悪魔だけれど健気なあの子が善であり、頑なに悪魔を嫌う人間の自分が悪になった。
 午前中の診療を終えただけだというのに、そういった言葉は後を絶たずに疲れが増す。
いつもおかずを分けてくれる主婦の方々も「二人分だからね」とありがたいようなありがたくないような配慮もしてくれるようになった。きちんと面倒を見てあげなさいという意味も込められているのだろう。

「疲れた……」

 最近待合室に置いてある子供用の絵本や図鑑の数が減っていることが多くなった。気が付くときちんと戻されているのだが、患者の子供達が燐に貸してあげているらしいのだ。最初の内はいろんな本が平等に貸し出されていたようだが、最近は図鑑ばかりが無い事が多い。
 愛用しているマグカップに半分だけコーヒーを注ぎ、ふぅと冷ましてから一口啜った。今日のコーヒーは薄くて温い。何とも中途半端だと溜息を吐いた。
 ふと見た机上のパソコンの隣には薄緑色の瓶があり、あの時の花が活けてあった。花はいまだに生き生きと陽に顔を向けている。おそらく燐がこっそりと置いたそれは、あえてそのままにしたままだ。あの時、酷いことを言ってしまったという自覚がないわけではない。
 少し空いた窓辺からは心地良い風が入り、白いレースのカーテンがひらひらと裾を揺らしている。窓辺に足を運ぶと、今日も黄色いたんぽぽの花が一輪置いてあった。

「たんぽぽはいいんだよって、クロに聞いたのかな」

 毎日決まった時間に置かれる花は、まだ瑞々しさを保っていた。
きっと、昼になると患者がいなくなるのを見越しているのだ。一番綺麗な摘んだばかりの花を見て欲しい、その思いが伝わってくる。話などしていなくても、一緒にいなくても、人と同じように向けられる好意はくすぐったくて嬉しいものだ。
いつも気になる存在で、知ればみんなに愛される素質を持っている燐に、ひどい仕打ちをしながらも心を奪われそうになる。
―そういうのが悪魔の専売特許だろう。
 少しだけ心を開きそうになる自分にそんな言葉が浮かんでくる。でも、そう言い聞かせる意味は果たしてあるのだろうか。
 庭にはハーブ園が設けてあり、しゃがんだ燐はそこで植物を観察していた。手には如雨露を持っていて、水やりをしてくれていたのかもしれないと想像が出来る。
診療で使う薬草も栽培していてなかなか香りもしっかりしているから、悪魔避けにも一役かっているはずだ。逆にそれらは燐にも害を成すもので、触れれば人が火傷を負うように皮膚は爛れてしまうだろう。
 声を掛けて注意してやった方がいいだろうか。……否、自分には関係の無い事だ。でも、もし大きな怪我になってしまったら。
あれこれ考えて、頭を掻いてみたり顎に手をやってみたり。右往左往している落ち着きのない雪男の姿を見付けたのは燐の方が先だった。

「あっ」
「…………」

 険しい眼差しの雪男に燐は肩を揺らした。雪男はといえば、小さな反応に身体が固まる。

「え、えっと! おてんきよかったし、つちがかわいてて、あっ……みずやり、しちゃった……」

咄嗟に立ち上がって聞こえるはずもない言い訳を零し、何をしていいかわからずに燐はただ棒立ちだ。それと恐らく薬草に触れて赤く腫れてしまった痛々しい小さな手が見える。傾けた如雨露からは残っていた水が雫となり土を濡らしていた。

「でもとってないし、みんなげんきだし……あ、れ……?」

 すぅと目の前が真っ暗になり、頭がぐらりと平衡感覚を失う。ずっとしゃがんでいて勢いよく立ち上がったからか、目の前がぐにゃりと歪んで足が縺れた。小さな身体は崩れるように緑の中に消えてしまう。

「え……!」

 捕まえられるはずもないのに、雪男は窓枠に手を掛け、そこから身を乗り出していた。ずっとまともに食べていなかったし、ずっと太陽の下だったから尚更だ。
 燐が倒れたのはハーブ園の真ん中だった。
どの方向に倒れても効力の高い薬草の葉が身体に当たる。悪魔が触れたら、どれだけの速さでどれだけのダメージを与えられるかなんて医師である雪男にとっては容易く想像出来ていた。
気が付けば靴も履かずに医院を飛び出し、柵を乗り超えて濡れた土を踏んでいた。綺麗に作った通路など関係なく、燐を目指し薬草を掻き分け、大きく一歩を蹴り出して。

「おい、どこだ!」

 確かこの辺だったはずなのに、問いかけても返事は無い。

「燐くん! 燐! 返事をして!」
「……せん、せ」

 掠れるような小さな声が少し先から聞こえてくる。
雪男も枝で腕に掠り傷を作りながらやっと探し当てた彼の身体は、薬草の硬い枝に挟まるように凭れていた。小さく息を吐き出すのも辛いように見える。

「もう大丈夫だから」

 触れるのも抱き上げるのも初めての燐の身体は、とても小さく軽かった。皮膚には痛々しく無数の火膨れが出来ていて、被れた箇所からは血が滲んでいる。

「……僕のせいだ」

 持っていたハンカチを白衣から取り出して傷を押え、冷や汗に濡れる前髪を梳いてやる。それ以上薬草が当たらないようにしっかりと胸に抱きかかえ、そこを出て診察室へ急いだ。
どこか別の場所にいたクロも駆け付けて、何度も鳴きながら雪男の後ろに付いてくる。

「わるいのは、おれ。さわっちゃだめ……おれ、せんせのこと、きず…つけちゃう」
「何でそんな……」
「ましょう……だから、だめ。ころしちゃうかも……だから、だめ。みてるだけで、いい……の」

 燐は雪男の腕から逃れようとする。力なんか入らないくせに、腫れた腕で雪男の胸を押した。
何故雪男が悪魔を嫌うのか。どうしても気になって、燐は話し掛けてくれる人にその理由を聞いた。
 雪男は悪魔に養父を殺された。
幸せだった生活が、悪魔によって壊され、奪われた。だから雪男は悪魔が嫌い。
でも燐はその話を聞いて、雪男のことがもっと気になった。自分よりもずっと大人なのに、雪男を守ってやらなきゃと思ったのだ。

「きらいで、いい……よ」

 近くで見ていたい、守ってあげたい。俺は悪魔だから、嫌いなままでいい。
 何かを堪えるように目を閉じたままの燐が、腕の中で呟き続けている。

「おはな、とっちゃ……て、ごめ……なさ……」

 まだ小さな子供なのに自分よりもずっと大人で、どこまでも純粋で真っすぐで、醜い部分などない綺麗な子だ。
嫌っていたはずの悪魔よりも、ずっと醜かったのは自分の方だったのではないか。

「悪いのは、僕だ」

 どこに吐き出したらいいかわからなかったものを、ただ悪魔だからという理由でこの小さな子にぶつけた。
この子は何もしていない。何も悪くない。
人と何も変わらないじゃないか。
認めてしまえば、皆に言われたことがするりと入ってくる。
僕はとても情けなくて、最低な人間だ。

「酷いこと言われて、悲しかっただろ」

 燐の瞼が少しだけ開いて、ふと体の力が抜けた。
今まで我慢していた涙がじわじわと溜まって零れそうになる。唇もへの字に曲がって、さっきまで離れようとしていた小さな手が、遠慮がちに雪男のシャツを少しだけ掴んだ。

「ちがう……せんせは、わるくない」

 ぽろりと一粒、頬に伝う。

「わるいこ、なのは……あくまの、おれなの」

 雪男は零れた涙を痛くないようにそっと拭って、燐の背中に優しく触れた。

「悪い子じゃない。魔障なんて受けない。僕の方こそ……ごめん」

 抱き寄せた小さな身体からは甘くて太陽みたいな匂いがした。堰を切ったように大きな声で泣く燐を咎める事無くただ抱き締めて、人と変わらぬ温かさなのだと初めて知った。
そうしている間にも傷はどんどん治癒していく。治療など必要ない、自分など必要ないと言われているようだ。
雪男は燐が泣き疲れて眠るまでずっとそうしていた。小さな手は雪男のシャツをしっかりと掴んだままだった。









続きは本で…!

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