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□うみのなかのあなたのはなしA
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入り組んだ岩を抜け、珊瑚のひしめく道を進み、ふよふよと浮かぶクラゲの大群を抜けるといつもは近くに感じない日の光を感じた。
水面が波を打って眩いばかりの光の帯が水中を照らしている。
とても綺麗でとても魅力的。その向こうに何があるのか気になって、燐は毎日このルートを散策していた。


一族は陸には全く興味が無かった。
興味を持ってはならなかった。
人間は残虐で人魚を見世物にする。目の色を変えて追ってくる。
人魚から見た人間とは悪魔そのものだった。
代々受け継がれるお伽噺にも似たその話は子供の頃からよく聞かされていて、皆地上の世界になど興味を示すことは無い。
だが燐は他の人魚たちとは違った。
燐の住む海底にある城から海流に乗ってしばらく行った所に難破船が一艘横倒しになって沈んでいた。
古くからそこにあるにもかかわらず誰も近付かない。
何にでも興味を示す燐は初めてその船に出会った時から内部の探検をしていた。
初めて目にする調度品や銀の食器、重厚な家具やきらきら光る宝石。細かい細工の施されたステンドグラスに触れて海面から伸びる光に当てたらどんな色彩を放つだろうと想像したりした。使い方のわからない物も沢山あったがどれもが興味を引いて、これを作り出す人間と触れ合ってみたいとさえ思うようになっていった。
行ってはならぬと咎められようが途中危険な目にあおうがそんなことは大きなことではない。
重要なのはその先に何があるのか見てみたいということだけ。


ある夜のこと、燐は欲求が抑えられずに人の住む海岸近くまで出掛けて行った。
夜ならば海側の景色は真っ暗で見える事も無い。自分の姿もまた人の目に触れる事は無いだろうと思ったのだ。
海岸から伸びる坂道を登った先には家が立ち並び人影が動いて見える。
あぁ、本当の人間だ。もっと近くに行けないだろうか。
燐は無意識に海岸により近付き浅瀬に乗り上げる。だんだんと砂地が尾鰭に触れてこれ以上は無理だと思った時、突然の大波に身体ごと流されてしまった。ここは浅瀬過ぎて自由に身体を動かせない。波に運ばれた先はごつごつとした岩場で燐の鰭は大きく傷付けられてしまった。
こんな時、頭に浮かんだのは仲間の声。
そんなことばかりしているといつか人間に捕まるぞと忠告された時の声だった。


「……っ」


所々鱗が剥がれて尾鰭に掛けて裂傷が一筋。思ったよりも出血していた。塩水が滲みて痛みもかなりある。どうしていいのかわからずに、燐はただ涙を堪えた。安易にここまで来てしまった事を悔いて、ここから帰れない事を嘆いた。このままここで死ぬんじゃないだろうか、そんな良くない考えで頭の中がいっぱいになる。


「………うぅ」


耐え切れす一粒涙がぽたりと水面に落ちた。
堪えていたはずなのに小さな嗚咽までもが零れだす。
二つ目の雫がぽたり、三つ目の雫がぽたり。
とめどなく溢れる涙に燐は両腕で顔を覆ってしまった。
寄り掛かった岩壁が冷たくて余計に寂しくなる。


「誰かいるの?」


人工的な光が辺りを照らした。
真っ直ぐに伸びる光はあちらこちらに向きを変える。
とても優しげな声だったが相手は人間に違いない。見付かれば見世物として売られてしまう。
隠れなければと思うのに傷を負った身体は自由に動くはずも無かった。
光は遂に岩場の影にいた燐を捉えた。
もう駄目だ、もうおしまいだ。
照らされた光が顔から下ろされてぼんやりと相手の顔が視界に入る。
歳同じくらいの硝子を顔に付けた人間だった。


「こんな夜に、迷子?って怪我してるの?」
「……」
「血がこんなに…僕応急処置出来るから見せて」
「いやだ、いい、平気だ」
「何言ってるの早く海から上がっ……え?」


最初は下半身が海の中だったから気付いていなかったのだろう。
腕を引かれて露出した人魚の身体に人間は言葉を失った。


「……人、魚?」


燐は答える事無く背中を向けた。
その場から去ろうとずるずると身体を引き摺ると更に鱗が傷付いて出血が増える。


「ちょ!待って!」
「見なかったことにして帰れ」
「このまま帰れる訳無いだろ、いいから手当させて」
「うるさい、帰れって言ってんだ!」


半泣きのような状態でそれでも意地を張る燐に人間の青年はムッとして持っていた携帯ライトを口に咥えた。


「うわ!離せ!」


軽々と横抱きに持ち上げられた燐は尾鰭をバタバタと振って拳で青年の胸を叩く。


「いはい!おほはひふひれ」
「何言ってるかわかんねー!」


どんなに暴れても青年の足取りはふらつくことなく険しい岩場を超えていく。
そのうち抱きかかえられた暖かさに少し心細さも解消されて燐は暴れる事をやめ、辿り着いたのは薄明りの灯る小さなテントだった。
バタバタと風に煽られる入口代わりの布を潜って中の柔らかな寝袋の上に燐を座らせた。


「あー、暴れるから余計に出血してる」


人魚など見慣れているはずがないのにこの人間は差して気にする様子も無い。
それどころか傷の具合を見てがさがさと荷物の中から何かを取り出した。


「縫わなきゃ駄目だな」
「えっ、縫うのか…?痛い?」
「そのままだと痛いから、魔法の薬をあげるよ」


手にしていたのは丸くて青い小さな硝子玉のような物。手の上に乗せられるとその色は一層美しく見えた。


「それ口に入れて目を瞑っていて」
「痛くない?」
「なるべく痛くない様にする」


反抗しても良かったのにどうしてか燐はその真っ直ぐな瞳を見てから手の中の青い玉を口に入れてから目を閉じた。
暖かい手が傷に触れて何かが塗り込まれて時々ちくりちくりと弱い刺激を感じたけれど「もういいよ」と言われるまで大きな痛みは襲ってはこなかった。


「傷が癒えるまでしばらく掛ると思うけど…やっぱり水に入ってないとダメなの?」
「わかんね…そんなに陸に上がりっぱなしだったことが無い」
「お風呂入れば大丈夫かな…」
「オフロ?」
「もしよければなんだけど、僕の家に来ない?今僕一人きりで住んでるから他に人はいないし」
「………」
「嫌かな?あっ、家族が心配するかな?」
「……どっちにしろ治んなきゃ帰れねーならそうするしかねぇんだろ?」
「じゃあ、決まりだね」


その人間はやけに嬉しそうに笑った。
とても思っていた人間像とは違う笑顔だった。信頼出来るかどうかはよくわからないが今俺が頼れるのはこの人間だけ。
その晩、燐は海の神様に祈りを捧げた。
この人間の瞳に嘘が無いようにと。






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