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□うみのなかのあなたのはなし@
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幼稚園生だった雪男は獅郎に連れられて近所の海によく遊びに行っていた。休みの日の午前中、それも獅郎が忙しくない時限定。小脇に買ってもらったばかりの魚の図鑑を抱えて良く知った道程をもみじのような手が一回りも二回りも大きな手を引いて進んだ。
「海ってなると雪男は目の色が変わるなぁ」
「うみもすきだけど、おさかなのほうがもっとすき!」
振り返った雪男は楽しそうに目を細めて笑った。
楽しい、もっと知りたい、そう思ってくれるならそれに付き合うのはまったく構わないし、どんどんやれと思う。だが獅郎には小さな疑問が一つだけあった。雪男の魚が好きだというのは観察することが好きなのか、はたまた食する事が好きなのか。せがまれて買った図鑑は雪男の愛読書となっていて今では一日中持ち歩き、暇さえあればそれを読んでいる。まだまだおもちゃで遊ぶのが楽しい年頃だろうに勉強熱心すぎて親としては心中複雑だ。普通なら興味があるものに接すると愛着が湧き、殺生など以ての外だろう。だが雪男とくればそれには当てはまらない。
「とうさん、うみみえたー!」
歩き始めて十分も経たないうちに下り坂のガードレール越しに海が見えた。雪男は繋いでいた手を解いて転がるように坂を下る。
「おい、転んじまうぞ!」
「だいじょ、う、ブッ…!」
声を掛けるのと同時に雪男の足は坂を下るのに付いて行けずに絡まって顔から一気に崩れ落ちた。地面は土だったが、あれはかなり痛いだろう。倒れた状態から起き上がろうとしない雪男に獅郎は駆け寄り、両脇に手を入れてひょいと立ち上がらせた。
「ほぉら、言ったじゃねぇか」
短パンの裾をぎゅうと握りしめた雪男の瞳からはぽろぽろと大粒の涙が零れて頬を濡らしていた。ひっくひっくと肩が揺れて膝が少し擦り剥けてしまっている。獅郎は少しまで飛んで行ってしまった図鑑を手にしていた。
「帰るか?」
図鑑に付着していた砂を払って目の前に差し出すと雪男は唇を噛みしめてぶんぶんと首を横に振る。泣き虫かと思えば意外に強情だ。
「膝擦り剥いちまってるし、手当しねぇと」
それでも雪男は大きく首を横に振った。
「帰らないのか?」
「うみ、いく……グスッ」
「ちょっとだけバシャバシャすんだろ?傷に滲みるぞ?」
「うぅ……いく、いきたい」
あぁ、鼻水すごいことになってきた。
ポケットから出したティッシュを雪男の鼻に当てて鼻をかませ、今度は新しいティッシュで滲む血を抑え、獅郎は周りを見渡した。
「それじゃぁ仕方ねぇなぁ。応急処置するか」
「おーきゅーそ…しょ…しゃ、ち?」
「そうだ、おうきゅうしょちだ。ちゃんとした手当は家に帰ってからするから取りあえずの手当てのことだぞ」
獅郎はひょいと雪男を抱き上げて海の脇にある公園まで歩いて行った。その場所なら水も使えるし、座れる場所もある。海も目の前だ。坂になる道をちょっと駆け足で下りて行き、目的の場所に辿り着くと獅郎は雪男を地面に下ろして靴と靴下を脱がせてやった。
「ちょっと痛いぞ」
共用の水道の蛇口を捻り、一本の筋となった水に雪男の膝を当てると雪男はウッと小さく呻いた。
「大丈夫か?」
「い、痛くないよ。このくらい…へ、平気だもん」
「そうか、えらいな」
今にも零れそうになる涙を堪えた雪男の頭にポンポンと手を当てて獅郎はポケットから二つの飴玉を取り出した。
「頑張り屋さんには特別のご褒美」
「いいの?」
「いいぞ。痛いのが吹っ飛んじまう魔法の飴だから食べるなら今なんだ」
手渡された飴は透明な包み紙の奥で綺麗な青い色を蓄えていた。とても綺麗で食べてしまうのが勿体無いくらい。でも魔法と聞けばその効果を実感したくなる。口にする前からその小さな胸は期待に震えていた。
「ほら、今が一番痛いかもしれねーぞ」
その声にはっとして視界をずらすと雪男はさあっと顔色を青く変えた。獅郎が手にしていたのはいつも携帯している万能薬と称する塗り薬だ。以前転んだ時にやはりこの薬が登場したのだが、あまりに滲みて大泣きした記憶が蘇る。
思い出すだけでも顔色を変える雪男は慌てて手の中の飴を口に放り込んでぎゅっと瞼を閉じた。
痛くない、痛くない。
すぐ終わる、すぐ治る。
何度も何度も心の中でそう唱えて、それでもどこかで訪れるだろう痛みに襲われる覚悟をしていた。だがそれは一向に訪れる気配も無く、そのうち獅郎が立ち上がる気配だけを感じた。
「痛くなかっただろ?」
え、終わったの?
そう思いながら目を開けて、怪我の箇所を見ると既に絆創膏まで貼ってある。痛みなんて微塵も感じることは無かった。
「飴のせい…?」
「言っただろ?魔法の飴だって」
だからもう一つはもしもの時に役に立つ。頑張れないと思ったら食べるといい。だけどあと一つしかないからよく考えて食べるかどうか決めるんだぞ。
獅郎はそう言って雪男に微笑んだ。
痛いのは嫌だし、怪我をしない様に気を付ければいい事。それにこの飴はとても綺麗だから食べてしまうのは勿体無い。雪男はそれを大事そうに背負っていたリュックにしまってから目の前の浜辺へ走って行く。波打ち際に寄せる波をじっと見つめて「おさかないないよー」と獅郎を呼んでいた。
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