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□healing
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今日も雪男よりも早く起床し弁当を作った。中身はタラの西京焼きといんげんの胡麻和え、里芋と人参の煮物、それと甘めの卵焼き。昨日は肉中心の俺の好みの弁当にしたから順番的に今日は雪男の好みに合わせた弁当になった。彩もばっちりで納得のいく仕上がりだ。


「おはよ…兄さん」


まだ半分寝惚けた様な顔をして椅子を引く雪男の髪の毛は頭頂部の小さな一束だけがぴょこんと立ち上がっている。きっと昨晩も帰りが遅かったに違いない。睡眠時間が極端に少ないと決まってこういったことになる。


「何時間寝た?」


出来上がっていた味噌汁の入った鍋にカチカチとコンロの火を点ける。蓋を開けて掻き回すといい香りが部屋に広がった。


「…一時間」


ぼそりと言葉が返って来る。白米をよそった茶碗を渡すと受け取った手の甲が静かにテーブルに着いた。


「それ寝た内に入らねーよ。そんなんで学校行けんのか?…って雪男くーん、起きて―?」
「起きてるよ、いただきます」


ぜってー嘘だろ、今寝てた!
そんな状態で大丈夫かと大抵自分よりも早く家を出る雪男を見送ることが多いのだが、不思議なことに学校や塾では今見ていた様な姿は微塵も見たことが無い。気を張って切り替えているのだろうが、そういうところがかえって心配になる。


「今日も遅いのか?」
「いや、任務は無いから塾が終わって明日の資料作り終えたら帰れるかな」


ツナと野菜を使った自信作のオムレツが雪男の口の中に消える。眠そうにしながらも口に運んだ時のちょっと幸せそうな顔を見て自分もそれらに箸を付けた。


「だったら晩飯一緒に食えるな」
「うん、たぶんね。晩御飯なに?」
「おまえ最近俺に対して飯の事しか聞かねーな」
「じゃあ、薬学の小テストの勉強してある?」
「う、…晩飯は鰹のタタキとかどうだ?」
「自分で言っといて何なの、勉強してないの?」
「あー、これからやる…」
「これからって…しょうがないな。テスト一桁とかだったら鰹のタタキは全部僕が食べるからね」


なんだそれ、要は飯抜きってことか?俺が作るのに?それは勘弁願いたいとテスト範囲から思い出そうとしたが何一つ浮かんで来やしない。俺の口から半分魂が抜けているうちに雪男は手を合わせて静かに「ごちそうさまでした」と席を立っていた。


「もう行くのか?」
「うん、支部に報告書出してから学校行く」
「もうちょっとゆっくりしていけよ、俺報告書出しといてやるぞ?」
「兄さんに頼んだら皆に何て言われるか」
「どーゆー意味だ」
「気持ちだけはありがたく受け取っておくよ」
 

用意してあった二つ並んだ弁当箱の一つに手を伸ばして、眼鏡を押し上げ目を擦りながら雪男は背を向けた。学校も塾もあると言うのに与えられる任務が強行過ぎるのではないか。メフィストんとこに文句言いに言ってやる。


「帰り雨降んぞー、傘持ってけー」


天気予報からの情報ではない。悪魔の勘?てやつだろうか。雨が降る日は尻尾がぴりぴりするような気がする。
食堂の出口を出る背中に口にいっぱい詰まったま声を掛けると「わかってますよ」とでも言いたげに後ろ手に手をひらひらさせて雪男は廊下に出ていった。何だかすっきりしない気持ちのまま俺は残りのおかずを再び掻き込んだ。




* * *




「はい、そこまで」


漏れる溜息と解放された空気、後ろから答案用紙が集まる音。ざわつく教室で机に突っ伏した俺の背中を後ろの席の志摩の指がちょんちょんと突いてくる。


「なんや、今日はえらい凹んでるなぁ。いつもの事やないの」


そう、いつもと同じくらいの出来(の悪さ)だった。普段ならいつもと同じように帰宅した後雪男に説教され、特別課題を出されて泣きを見る。だが今回はそれに加えて飯抜きだ。答案が返ってこなくたってわかる。むしろ返してもらわなくていい。


「俺のメシ…」
「はぁ?何の話や」


雪男の分は用意しなくちゃならないのに自分は無しなのかよ。


「えー、小テストは明後日の授業で返却します。合格点に満たなかった人は後日特別課題とそれに加えて補習授業がありますので覚悟してくださいね」


うぉー!
何で俺だけを見て言うのかな。いや、それはたぶん間違ってはいないけど。採点しなくても俺の点数はわかってるみたいな顔しやがって。クソ。
 思い切り鼻から息を吐き出すと終業のチャイムが鳴った。これで今日の塾の授業は終りだ。ギィと雪男が扉を開けて出ていくと土の香りが空気に混ざって入ってくる。


「雨降って来たのか」


塾の教室は元々湿気が多いような気がするが、よりそれを強く感じた。いくらか気温も下がった気がする。それならば余計にここでぐだぐだしていても仕方がない。気持ちを切り替えてさっさと夕飯の買い物して寮に帰ろう。
机の上の散乱したシャープペンシルと消しゴムを乱暴にペンケースに突っ込んで席を立ち扉へ向かう。


「真面目に補習受けや」


通りすがりにぼそりと声を掛けられて振り向くと勝呂が頬杖をついてこちらを見ていた。


「なんだよ、俺はいつも真面目だ」
「いっつも寝とるヤツが何ゆーとんねん。今日のテストだって基本抑えといたら何てことない内容やったで」
「そ…そう、だった?」
「これやから…おまえでも点取れる様に配慮されてるように思えたけどな」
「……」
「先生最近忙しいんやろ?そういう中でも兄貴がいいように転ぶように気ぃつこうとるんや。わかってやらな」
「…おまえ、俺の兄貴みたいだな」
「おまえの兄貴なんぞ頼まれても御免や。疲れるだけやろ」
「失敬な奴だな」
「事実や」


席を立った勝呂は横でにやついていた志摩の頭をぱしんと叩いて「おまえも他人事やない」と首根っこを摑まえて教室を出ていく。勝呂の言う事が本当なら何とも自分が情けない。


「坊もあれで心配しとるんよ。頑張ってな、奥村くん」


ほなね、とにっこり笑った子猫丸がその後を追いかけて行った。


「だよな…うん、…でも、なかなか難しいんだよ…」


 無意識に力の入っていた掌をズボンから退けるとそこにはくっきりと皺が刻まれていた。




* * *




確か塾が終わった後、資料作りがあるとか言っていた。先に帰っていつものように飯の支度をして待っていればいつもより早めに帰ってきた雪男と一緒に食事を取ることが出来るだろう。
だけど俺は今、塾講師用の出口の扉に寄りかかって外を眺めている。
朝の読み通りに夕刻から降り出した雨が紫陽花の花を濡らし、その青紫色をより鮮やかに見せている。屋根から伝う雨粒が規則正しいリズムを刻んで目の前の水溜りにぴちょん、ぴちょんと落ちていく。それ以外は静かに雨が降る音しかしない。まるで時の流れがゆっくりになったようだった。自分に降りかかる常識はずれな色んな事が嘘のように思えてくる。


「あれ、どうしたの?」


背後から聞こえたのは講師ではない弟の声だった。


「やっぱな」
「やっぱな?」
「傘、持って出なかっただろ」
「あぁ、ぼーっとしてて」


自分の事となると雪男はいつもこんな調子だ。いつもの潔癖さが成りを潜めてしまう。


「んじゃ、帰るぞ」


深い藍色の傘を開いて再び後ろを振り返ると、それまできょとんとしていた顔が緩く綻んでいく。


「ほら、先に帰っちまうぞ」
「うん、帰ろう」


隣に並んだ雪男の手が俺から傘を奪った。悔しいけれど少しばかり背の高い雪男が持ってくれた方が都合がいい。


「ところで兄さん」


キター。絶対来ると思ってた!


「テストだけど」


 もういい、わかってるから止めを射すな!


「おぅ…、やっぱ出来なかったから…補習…頑張るわ…」
「わかってるんだ」
「そりゃあなぁ」
「補習受けるの兄さんだけだからびしばしスパルタで教えるからね。それと鰹のタタキは僕が戴くよ」


やっぱり覚えていやがったか。まぁ、勝呂に免じて今日のところは譲ってやらんこともない。


「それとね」
「まだ何かあんのかよ」


差し出されたのは傘の柄で、さっき奪っていったんじゃねーのかと首を傾げたけれどつい条件反射でそれを受け取ってしまった。


「待っててくれてありがとう」


ふわりと腰に回った両腕が引き寄せられて雪男の顔が首元に落ちてくる。甘えるように擦り寄って来るが眼鏡が地味に食い込んでちょっと痛い。


「何甘えてんだよ!ここ外だし!」
「誰もいないよ」


周囲を見渡しても確かに誰もいない。その辺の念の入れようはさすが抜かりない。


「疲れた、眠い」
「もう、しょうがねーな」


ふぅ、と息を吐く雪男の頭をポンポンと撫でてその頭頂部にちゅっと唇を当てた。大胆に甘えてくる癖にその瞬間大きな身体がびくんと波を打つ。


「帰ってから存分に甘えなさい」
「へぇ。じゃあ帰ってから存分に甘えるよ」


疲れていたはずの表情が一気ににこやかに変わった。
再び傘を持ち直した雪男は俺の方に傘を傾ける。雪男の右肩は雫に濡れて色が変わっていた。俺は夕飯の話をしながら傾いた傘の先を指先で持ち上げる。そして雪男の方に少しだけ身体を寄せたのだ。





end

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