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□雨の日、あなたに会いに行く
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午前中の授業も終り、昼休みでざわざわと人が動く時間になると燐は教室に顔を出す。だがほとんどのクラスメイトはそのことに触れてはこないし話し掛けてくる事も無い。燐は「厄介な生徒」として認識されていた。粗暴な性格で喧嘩っ早く学校には気紛れにしか来ない。色んな事実が実際にはそうじゃないと訴えたって世間体を気にして保護者を大事にする学校側は燐の話を聞こうともしない。間違った情報が尾鰭を付けて燐の人間性を固めてしまっていた。そうして最近よく教師に呼び出されてはちゃんと授業に出るようにと苦言を呈されていた。希望した進路の事も「無謀だ」と一蹴して検討の余地すら無かった。

だが燐は雨の日はあの場所へと通う事をやめなかった。最近では食事を取らないあの人の事が気になって朝だけでもと朝食を作っていく。そうすると決まって燐の分もコーヒーを買ってきてくれていた。笑顔で手を振り「待ってたよ」と迎え入れてくれる。どんなに心が荒んでもここに来ればこの人がいると救われた。気が付けばもうなくてはならないものになっていた。


夜、眠る前。朝、瞼を開く瞬間。
無意識に雨であることを願っている。


世の中はとても広いはずなのに、晴れの日は自分が酷く子供染みた世界に留まっているように思えて焦りばかりが増えていく。仕事とか社会とか、あの人が普段いる場所がやけに遠くに感じた。はっきりとわかっているのは、あの人から見たら俺はまだ十五の子供でしかない事、そして俺にとって料理の道を進むことが喜びを感じられるという事。
心の奥底でじんわり滲みだす何かに気が付かないふりをして日々を過ごした。






* * *






人がごった返すホームの中央で入ってくる電車を時刻表に凭れたまま虚ろな瞳が追っていた。ブレーキの耳障りな音の次に乗降中のメロディーが軽快に聞こえる。人の流れに乗って流れ込もうとするが白線のずっと手前で足が止まった。発車のベルが響いて階段付近では駆け込み乗車するルールを無視したサラリーマンが身体を滑り込ませてドアが閉まった。


「はぁ……」


電車はゆっくりと動き出す。次第に速度を上げ、目の前を通過していく窓に覇気の無い自分の顔が映り込む。


どうしてこんな風になってしまったのか。
僕は、小さい人間だ。


彼はまた時刻表に背を預けた。
今日こそはと思ったが歩みは進まない。足が向いたのはいつもの方角だった。雨は靴を濡らし、歩く度に跳ね返る水飛沫がズボンの裾を濡らす。紺色の傘を開いて複雑な表情であの場所に向かった。
あの場所で今日もノートを広げている姿が見えてくると不思議と心が落ち着いて表情もやんわりとするのが自分でもわかる。


「おはよう。今日はもう来ないかと思ってたけど……よくクビにならないよな」


傘を畳んでから彼の後ろを回っていつもの席に移動する。今日も沢山書き込んでいるようだった。


「へぇ、すごいな。料理のレシピ?」
「ちょ、ちょっと見るなよ!」


今まで覗いたことは無かったけれど、自分にはわからない専門的な知識も、絵があまり得意じゃないと言っていたにもかかわらずわかりやすいイラストまでもが描き込まれていて、一瞬見ただけだったのに料理に対する熱意と好きだと言う気持ちが伝わってくる。


「いいじゃない」
「見せられるようなもんじゃねーから」
「そう?」
「そうなの。ほら、あっち座れ」


恥ずかしがって頬を少し染めた燐はしっしっと手を揺らした。言われるままに腰を下ろしていつもの場所にまだ雫が流れる傘を立て掛けた。


「それよりも、朝飯…というか昼飯?作って来たけど一緒に食べるか?」
「今日は僕も自分の分持ってきたんだよ」


取り出したのは青いハンカチで包まれた弁当箱だった。蓋を開けるとそれなりに見栄えはいい。


「じゃあおかず交換しようぜ」
「あ!ちょっと!」


用意してあった箸を卵焼き目掛けて一気に突き刺し掬い取る。慌てた声などお構いなしに燐は自分の口に放り込んだ。


「……ん?んぅ……?」
「あまり得意じゃないんだ……」


考えるような表情がちょっと眉間に皺が寄り、困ったように咀嚼してごくりと喉を通るときは肩が震えていた。見るからに無理して食べたという感じで申し訳無さと羞恥心がいっぺんに込み上がってくる。


「…自業自得だ」
「っはは、意外に不器用なんだな」


慌ててお茶の入ったペットボトルを差し出すと燐は笑ってそれを少しだけ流し込んだ。


「人には得手不得手ってものがあって…」
「はいはい、でもこれはこれでいい味してるぞ?歯ごたえもあるし」
「歯ごたえのある卵焼きなんてどうなんだよ」


珍しく口をへの字に曲げた彼は不機嫌そうにそっぽを向いた。燐は更にクスクスと笑って自分の卵焼きを空いたスペースに入れてやった。


「俺のはもうちょっと美味いと思うけど」
「……知ってる」


もう何度も食べさせてもらった。しばらく食べていないとそれが恋しいと思える程に身体が欲する。恋しいと思えるのは燐の料理か、……それとも。
黄色く艶やかな卵焼きは今日もとても美味しいと感じた。






* * *






「それでさ、ちゃんと味がするんだ。その人の料理」


空けたままのカーテンが少し夜風に揺れた。部屋の中は読みかけの雑誌や書籍が散乱し、脱いだ服はだらしなくソファーに引っ掛かっていた。チョコレートがテーブルの上に無造作に投げ出され、流しには空になったビールの缶が数本分置かれていた。観葉植物の葉も首を擡げ始めている。
電話越しに聞こえるのは少し前まで傍にあった声だった。


「味覚戻ってきたんだ、良くなってる証拠だね」
「どうなのかな。でもちょっと前まではチョコレートとアルコールくらいしか味がしなかったから」
「やっぱり仕事辞めること決めたからかな…良かったじゃない」
「……あぁ」


この人はいかにも優しそうに話す。まるで壊れ物を扱うように。でも辛くて仕方が無かったあの頃、貴女は周りの声ばかりに耳を傾けて僕の話を信じてはくれなかった。


「じゃあ退職手続きは休み明けに。上には伝えておくから」
「別れた後まですまないな」
「ううん、でも良かったね。そのおばあさんに会えて」
「ん、誰のこと?」
「誰って…その公園のお弁当持って来てくれるっていう」
「あぁ…そうだね。また話してくるよ」
「うん、ゆっくり休んでね」


用件が済んですぐに切られた画面にはその名が表示されていた。話している間は努めて明るくしたものの、電話が切れた今は脱力感に襲われる。着信してその時はすぐに出る勇気が無かった電話に、あれこれ嘘の理由を付け加えて掛け直した。あれ以来、僕は嘘ばかりだった。


明日はまた雨だろうか。
雨であってほしい。


重い頭を抱えてそのままベッドに潜り込んだ。次第に訪れる微睡みの中、自分はまだ起きているのか夢の中なのかさえもよくわからない。いつもそうだった。現実なのかそうでない所にいるのか。いつだって逃げてばかり、そんな自分が嫌だった。ベッドの中で丸まって、きっと眠ったり起きたりを繰り返している間に夜明けは来る。そのうち充電器に繋がったままの携帯が「朝だ」と顔の傍でメロディーを奏でた。
また新しい朝が始まる、行きたくない。
ぼんやりといつもみたいに負の感情に攻められる。でも視界にはカーテンの間から覗く暗い外の風景が見て取れた。


「……雨だ」


飛び起きて今日も一人分の弁当を作る。決して上手には作れない料理でも気分が良かった。出来上がった物を詰めてまたあの場所へと傘を差して歩いて行く。雨に濡れていてもその道筋はとても明るく輝いて見えた。


「はい、これ。お礼」
「お礼?」


手渡したのはずっと前から欲しいと言っていた海外の本だった。あまり出回っていないようで探すのに一苦労した。


「結局いつも君のお弁当ばかり戴いちゃってるから。それに欲しいって言ってただろ?」
「こんなに高い本…いいのか?」
「うん、貰ってくれたら嬉しい」
「あ、ありがとう!……ゴザイマス」
「フフッ、どういたしまして」


明るい表情は眩しすぎるくらいにきらきらしていて自分には不釣り合いだと思えてもここに一緒にいられる喜びを感じてしまう。どういう感情を持て余しているかなんて明白だったけれどそれを認めてしまう事は出来なかった。


「えと、今度…っつってももうちょっと先だけど」
「うん」
「弁当じゃなくて」
「うん」
「俺んちに招待するから、試食してくんねぇか?」
「え……っと」
「父さんは今海外だし、食ってくれる奴いなくて、美味いのか上手くないのかどこがいいとか悪いとか教えてくれる人がいないから…今はまだダメだけどもっと上達して自信が付いたら…」
「僕でいいの?」
「いいから言ってんだよ…」
「そう、じゃあ期待してるからね」


そんな風にまた距離が縮むとそこにずっと居たくなってしまう。だけど本当の自分を晒したら、それでも君は今と同じように接してくれるだろうか。だけど何かが邪魔をして本当の自分は見て欲しくなかった。これで十分だから今の彼をこのまま見続けていたいとそれだけを願っていた。


「どうやって歩いていたのかわからなくなったんだ」


始めて漏らしてしまった弱音に燐は小さく反応した。眺めていた本からこちらを向き直して心配そうに小さく首を傾げる。


「…それって仕事の事?」
「……色々」


雨は日差しに照らされて屈折した光に変わる。時期に太陽が空を支配するだろう。

諦めと失望を含んだような瞳の色に燐は思った。
俺はまだ何も知らない。この人の仕事も年も、抱えた悩みも名前さえも。それなのにどうしようもなく惹かれていったのだ。






* * *






日差しが一気に強くなった七月、まるで誰かがスイッチを切り替えたかのように晴れの日ばかりが続くようになった。梅雨は開けて雨の口実は用を成さなくなり、燐が授業をさぼることも無くなった。なんて大人の観点から物を考えたりしてみたりしたが、でも本当は梅雨が明けて欲しくは無かった。
それでも毎日、バッグに一冊の本を忍ばせて午前中に家を出る。コーヒーを脇に置いていつもの指定席を陣取った。文字がびっしりと詰まるページを見ているようでいて半分上の空。流し読みとは言っても読んでいるとは言い難いほどにその内容は頭には入っていなかった。人の気配がする度に顔を上げてその方向を見るがそうであってほしいと心のどこかで期待している顔ではない。
晴れの日のここはまるで知らない場所みたいだった。
そんな日々をやり過ごし、気が付けば八月。学生は皆夏休みに入っただろうか。そういえば学費の為、材料費や道具代の為にとアルバイトを増やすと言っていたっけ。休みともなれば有効に時間を使いたいはずだ。こんなところに連日通う暇も無いのだろう。燐に会いたいと思うけれどその気持ちを抱え込んでいるだけではきっといつまでも自分はこのままだ。いい大人が一人では歩けずに誰かに寄りかかろうなんて甘いのだ、そう自分に言い聞かせた。


「明日、天気になぁれ」


振り上げた足からスニーカーが小さな弧を描いて飛んで行った。予想は晴れ。ここのところ連日晴れ続き、しかも予想も当たり続きだった。
片足でぴょんぴょんと飛びながら靴を拾い、また元の席に戻って青い缶を手に取った。つまみはチョコレート、その繰り返し。
二十七歳の自分は十五歳の時の自分より少しも賢くない。他の人の成長を見ながら自分ばかりがずっと変わらない同じ場所にいた。






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