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□悲しい黒は十字架に誓う
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背負ったバッグの中身が走るたびに五月蝿かった。こんなに本気で走ったのは高校生の時以来ではないだろうか。全く人の無い通りに僕が走る足音とガサガサと耳障りな音がやけに大きく聞こえる。
あの人の顔が見たい。
ここからではどんな顔をしているのかなんてわからない。何故毎夜塔の上で祈りを捧げているのかも気になっていた。
わかるのはとても寂しげで悲しげだということだけ。
大聖堂は徐々に目の前に迫り、塔に膝を付く姿が次第にはっきり見えてくる。下げられていた頭が少し上がり、時を置かずにその身体もゆらりと立ち上がった。
早く行かなければ彼はまた闇に消えてしまうだろう。街路樹の木々の枝が僕が走り抜けるたびにさわさわと揺れる。疲労が見え始めた足にギリリと歯を食いしばるけれど、地面の段差に足を取られて今まで外せなかった視線が一瞬足元を向いた。
「わっ......、ぁ......」
急いで見上げればもう姿は無かった。
自然に走るスピードは落ちていき両膝に手を付いて身体全体で息を切らす。下を向いて目を瞑ると額に浮いた汗が一粒ポタリと地面に落ちてじんわりとアスファルトの色を濃くした。
「もう、......ついて、ないな」
一人呟いて手の甲で汗を拭った。
見上げた塔の先にあの人はいない。
雪男の両膝に乗せられていた掌がきつく服に皺を作っていた。
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その辺の塀から飛び降りるように軽くブーツの底を鳴らして数十メートル下、大聖堂の裏口にストンと小さな音を立てて身体を落とした。ゆっくりと立ち上がり誰もいないはずの斜め後方を振り返るとその口端は少しだけ上がり笑みが溢れる。
「......そっくりじゃねえか」
そう、よく知った顔だった。
嬉しくて、胸がいっぱいになって、そんな言葉が出てしまった。
本当は嬉しいなんて感情は持ってはいけないのかもしれない。
しかししばらく封印してあった思いは姿を見てしまっては溢れてしまう。
話したい、触れたい、またあの笑顔を自分に向けてほしいと思うのはあまりに都合が良すぎる。自分の一方的な感情を振り翳す訳にはいかないのだ。
ブーッ、ブーッ、ブーッ
コートの中で携帯が震えた。
こんな時間の着信は任務の緊急要請か、あるいは昼と夜の感覚に然程変わりがないあの人物からか。
表示される名前はこの世界で唯一燐の事を生まれたときから知っている存在。
画面に指で触れて耳に当てるともう聞きなれてしまった声がドイツ語で挨拶をする。
「Guten Abend Mr.Okumura☆」
「日本語でいいんじゃねーの?」
「おや、先日はドイツ語で相手してくださったじゃないですか...カタコトでしたけど」
過ごす月日が長いと勉強が苦手でもある程度のことは身に付くもので、世界各地で任務をこなす燐はヨーロッパにある支部にも在籍していたことがある。
勿論日常会話では日本語など疎遠だから必然的によく聞く単語と身ぶり手振りのジェスチャー、そして人懐っこい笑顔で日々それなりだが過ごすことはできた。
それを人の寿命の何倍あるかわからぬ悪魔の寿命の年月だけやり過ごしていたらいくら頭の出来が残念でもカタコト位は話せるようになるだろう。
「今は日本だから日本語使いてぇの」
「ほう、日本の空気を懐かしんでおられるのですか。それとも日本語で誰かと話したくなった、とか?」
「何だよ、盗み見かよ...偶然じゃねーのか?」
「さて、どっちでしょう?」
久しぶりに聞くその言葉を敢えて使ってくるあたり、この状況は仕組まれたもののようだ。しかしそんな口癖、自分だけが覚えているものかと思っていたけれど。
近くにある花壇の脇のベンチに腰を下ろし背凭れに腕を引っ掻ければ僅かに袖口が上がって血のこびりついた手の甲が露になる。もう乾いてしまったそれに感情の無い視線をじっと落としていると電話口の相手が見ているかのように言葉を吐いた。
「今日はお疲れでしょうから早く帰って休んでください」
「用件あるんじゃねーの?」
「このタイミングで電話をしたということはつまりそういうこと。用件は済みました」
電話してこなくたってわかったっつーんだよ。だってそれ以外考えられない。
「Haben Sie einen schonen Abend☆(素敵な夜を☆)」
「Okay, gute Nacht(はいはい、早よ寝ろ)」
一言ドイツ語を使ってやれば満足するだろうと適当にあしらって通話を終わらせ、暗くなった画面に溜め息を落としてコートのポケットに滑り込ませる。燐の瞳が上がり高い塀の向こう側を見るように少しだけ細められると背凭れから背中を離し反動をつけてひょいと立ち上がった。引き寄せられるように壁に向かって歩いていくと今まで吹いてなどいなかった風がふわりと周りの木々の葉を揺らす。
「はぁ...」
壁を挟んで向こう側から懐かしい溜め息が聞こえたのを燐の耳は聞き逃さなかった。その音はその昔良く聞いていたのと同じ。どうしようもなく懐かしくてぎゅうぎゅうと胸を締め付ける。嬉しいとも辛いともつかぬ表情で片方の手を壁に着いた。気配を探ればこの壁の向こうにいるのは確かだ。
「......逢いたいな」
風に乗って届く声はか細くて小さくて。
何故そう思ってくれるのか燐にはわからない。それを聞き入れたい自分と駄目だと制する自分とが感情を波立たせていた。
壁の向こうの人は動こうとしなかった。
燐もまたそこから動けずに塔の上の十字架を見つめていた。
*