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□濃紺の本と小さな花束
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窓から見える曇天の空から舞う白い粒。ふわりふわりとゆっくり降り出して窓硝子が濡れていく。
今日は少しばかり遅いな、なんて約束などしていないくせに時計ばかりが気になってしまう。
ベッドの脇に置かれた数冊の本の中から一番よく手に取る濃紺の表紙に手を伸ばし銀色の栞を挟んだ頁を開いて本の隣のスペースに無造作に置かれたペンを手に取った。暫くそちらに集中してペンを動かす。テレビなど付いていない空間は静まり返り少しの音でも大きく聞こえてしまうから、ましてや大きな音は心臓に悪い。特に年齢を重ねた者には。


──コン、コンコン、コンコンコン。


僕の事を考えてくれているような控えめに扉をノックする音はいつもと同じで合言葉のように一回、二回、三回と音を立てる。そんなふうにしなくても誰だかわかると言ってはみたけど、僕の言ってることなど聞いていないのかいつも同じノックで入ってくるんだ。
開いていた本をぱたんと閉じてペンと共にベッドの脇に戻すとキィと扉が軋む音が小さく聞こえて兄さんがひょっこり顔を出した。


「おっす、元気か?」

「元気に見えるの?」

「まぁ、じいちゃんじゃしゃーねーな!」


遠慮なく入ってきては馴れた手つきで点滴をぶら下げた器具を少しだけずらして机の端にある花瓶を手にした。持ってきた多彩な色の花を手に洗面所へと足を運ぶ。
体をうまく動かすことも難しくて遮る壁に対して影になった兄さんの姿は今は捉えることが出来なかった。


「その花、兄さんにしては可愛らしいチョイスだね」

「そっか?おまえに似合うかなーと思ったんだけど」


兄さんが持って来てくれたのはいろんな色の丸くて花弁が幾重にも重なった花だ。女性が好みそうな可愛い感じの。本当に僕に似合うのかと言えばどうだろう。
以前、と言ってもだいぶ昔だが、ちょっとしたプレゼントが必要で一緒に花屋に行ったことがある。花屋に行くのは照れ臭いしどんな花がいいかよくわからないと言っていた兄さんを思い出す。そんなことがあったから、おそらくしえみさんの家の庭で咲いていた花だろう。


「毎日じゃなくてもいいんだよ」

「もう日課になってるし、花選ぶのって楽しいんだぜ。あげる人の事考えて選ぶんだってしえみから教えてもらったんだ。手ぶらじゃおまえに何か言われそうだしな」


ほら、やはり。しえみさんの庭から貰ってきているんだ。でも兄さん自ら選んでいるとは思ってもみなかった。
その表情はここからは見えないが声は嬉しそうで此方が気恥ずかしくなってしまう。

こんなに長年の付き合いなのに兄さんは何一つ変わらない。容姿は勿論、僕に対する態度も想いも。僕は年を重ねて、知らない人が見れば今では僕が祖父で兄さんが孫のように思われるだろう。兄さんに対する気持ちは変わらない。変わらないからこそ近い将来の事が心配だった。


「ね、兄さん」


吐き出した言葉も弱々しくて体力の衰えを犇々と感じる。思っているほど若さなど持ち合わせてはいなくて情けなさすぎて笑ってしまった。
奥から気のない「んー?」が聞こえる。


「大事に思える人は見つかった?」


以前から兄さんに言っていたこと。
僕はもうこんなだから兄さんが大切だと思える人にこの人を託したい。本当はそんなことしたくない。だけど決められた時は必ず来るのだ。
きっと怒るんだろうな、そう思い視線を上げた。


「何言ってんだ」


黒いコートの裾を揺らして僕のベッドにとすんと腰掛けてことりと花瓶を置いた。此方に向けられた青はずっとずっと変わらない。幼い頃に笑い合った時、学生の頃喧嘩した時、初めて情を交わした時、祓魔師になりお互いを守り合った時、そして老いてしまった僕にも。全てに同じ青が向けられていた。


「俺はおまえじゃなきゃ嫌なの」


揺るぎない瞳が近付き、よく知った唇が僕の唇に触れる。優しく触れるだけの口付けは僕の思いも兄さんの思いも溢れさせる。離したくない、誰にも渡さない、抑え込んでいた気持ちが抑えられなくなってしまう。
唇が離れると兄さんは僕の老いた身体を優しく抱き締めた。


「僕の思いを誰かに託さなければ、これからずっと僕は兄さんを縛り付けてしまう」

「それでいいじゃねえか」

「つらいのは兄さんだよ...」

「つらくても、大丈夫だから」


抱き締められる腕が少しだけ強まってじわりと僕の首元が水気を帯びた。


「兄さ......」

「こっち向くな」

「...全然大丈夫じゃないじゃないか」


僕の首に顔を埋めて動かなくなった背中を子供をあやすようにぽんぽんと叩いてやった。

あぁ、全くこの人は。
ならば、その時が来たなら、僕は貴方にこの濃紺の本を託そうと思う。僕が書いた貴方との思い出を詰め込んだ本だ。僕が死んでしまったら一緒に棺に入れてもらおうと思っていたけれど。僕がいなくなった後もそれを読んで僕を思い出して。僕はずるいからこの本で貴方を縛り付ける。

だから待っていて。
僕はまた貴方の前に現れて見せるから。






end



【おまけ】

燐が持ってきた花はラナンキュラスという花弁が幾重にも重なった花です。花言葉は「あなたは魅力に満ちている」。老いてしまった自分に負い目を感じていた雪男の事を兄さんはわかっていたんでしょうね。
雪男が転生してまた燐の元で生きていけることを願います!

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